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退屈日記「おれの妻がパリにも出現した。神出鬼没な妻に救われた夜」 Posted on 2022/11/29 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、時差ぼけが酷くて、それから、なんか精神的に不安定な時期に突入しているようで、なんとなく釈然としないのであーる。
年齢のせいもあるのだろうけど、神経質なこの作家的性格のせいもある。
ぼくは時々、不安定になるのだ。生きている証拠だと思う。
時々、理由が見つからないのだけど、厭世的になって落ち込むこともある。
そういうのがない人が羨ましい。
数年前は、家事をやめたくなる病気と呼んでいたが、最近は、息子が大学生になったこともあって、家事のせいにできなくなった。
ま、でも、心を病んでいない人なんかいないのだから、それが普通だと自分に言い聞かせて、日々をしのいでいる・・・。
カフェで呑んでもいいのだけど、三四郎がいるし、パリの夜は早いし、フランスには日本のような純粋なBARが少ないので、結果、今夜は家呑みになった。
年代物のブランデーを自宅の保管庫から取り出し、壁が崩落しそうなキッチンの隅っこで、蝋燭を立てて、呑みだした。
なんとなく、最近、露宇戦争のニュースが読めなくなった。あまりに希望がなさ過ぎるし、この世界の不条理に対しても、もはや想像力がおいつかなくなりつつある。
現実逃避の毎日が続いている。
バーマン(バーテンダーのこと)がいないので、際限なく呑んだ。
三四郎がぼくの足元で丸くなり途中まで付き合ってくれたが、彼も犬の園で遊びすぎ、疲れたのだろう、自分の寝床へと戻って行った。
ブランデーを蝋燭に翳して、綺麗だな、と思っていると、
「あなた」
とどこからともなく、いつもの声が聞こえてきた。
顔を上げると、窓辺に、お前がいた。
「ありゃ、パリまで追いかけてきたの?」
思わぬことを言ってしまった。

退屈日記「おれの妻がパリにも出現した。神出鬼没な妻に救われた夜」



「何を言ってるのよ。私はあなたがいるところにいつだっていますよ」
今日もいきなり、嬉しいことを言ってくれるじゃないか、おれの妻よ。
東京の孤独が生み出した幻妻だと思っていたが、もしかするとぼくの心の中に居ついている理想の妻かもしれない。
目を凝らしてみた。蝋燭の炎がまぶしい。
妻は光をまとい、教会のマリア像のように、ちょっとかすんで見える。
ぼくは顎を突き出し、目を細め、愛する妻をちら見した。
ふっくらとした腕が見えた。これこれ、この二の腕が好きなんだよねー。ぷよぷよ、可愛いなぁ。
パジャマのような、リラックスした服装だ。
寝る準備は出来ているみたいである。いいねー。
小太りで、髪が短く、片頬にいつものえくぼがある。小じわも、こめかみのシミも健在だった。目は細く、垂れ下がっていて、でも、優しそう・・・。いひひ。
あ、決して美人ではないが、失礼、でも、それがとっても嬉しいのであーる。
ぼくもかっこつけないでいい。有り難いなぁ、と思ったら涙が溢れそうになった。
「あなた、ちょっと呑み過ぎじゃないですか?」
「あ、でも、ぼくはなんかね、心が苦しんだ」
ぼくはグラスの中のブランデーを舐めた。目の周辺に疲れがたまっている。
「マッサージでもしますか?」
驚くべきことをおれの妻は言った。
「えええ、いいのォ? マジか?」
妻は微笑んでいる。マッサージか、めっちゃ素敵な響きだな、ひびき、エコーズじゃん、と思った。
そんなことしてもらえるの? 
まて、こんなこと書いたら、性差別とかで訴えられない?
マッサージとか毎晩してもらっているのかよ、といつも羨ましがっていたことが、今、自分にも起きようとしている??? くっー、やばいね。
「なんか、甘えたくなっちゃったなぁ。でも、人に弱みを見せるのが苦手でね」
「いいのよ。あなたの弱みをぶつけてください」
もう、これはマジやばい、今日はどうしたんだ。いきなり、パリに出現かよ、嬉し過ぎるじゃんか。おれの幻の妻に乾杯だ。鬱ってる場合じゃないだろ、ひとなり!
人が頑張れるのは、弱みと付き合ってくれる人のおかげ、でもある。
そうだ、頑張るぼくにはそういう人が必要だった。
「あなた」
と幻妻は言った。

退屈日記「おれの妻がパリにも出現した。神出鬼没な妻に救われた夜」



「息子のことが心配なんだよ。それが鬱の原因だと思う」
「・・・」
ぼくは妻の意見が聴きたくて、ブランデーをあおった。
ふー。酔ったかも。
「あなた」
「はい」
「一度、彼とじっくり話をした方がいいわ。二人きりで、父子旅でもしたら? 昔みたいに。旅先でしか語り合えないことがあります。彼は相談したいことがあるのよ」
「ああ」
そうだろうな、と思った。

退屈日記「おれの妻がパリにも出現した。神出鬼没な妻に救われた夜」



きっと、あいつは相談したいことがあるのだ。
「わかってる」
「そこだけは逃げちゃいけません」
「うん。そうだね」
「さ、もう寝ましょうか」
「え?」
顔をあげるのが怖かった。消えちゃうんだよね? 
「腰がね、痛くて。いつも働いているから。痛い痛い、お父さんはつらい」
ぼくは立ち上がり、蝋燭を吹き消した。
それから、ふらふらと歩きだしたのだ。
キッチンを出る時、振り返らずに言った。
「おやすみ。ありがとう。おれの妻よ、先にやすんでいるからね」
そして、暗い廊下へと出たのであった。

つづく。

今日も読んでくれてありがとうございます。
来ましたね、おれの妻。パリまでおっかけて。来てくれないかなー、と思っていたので、夢が叶って、素敵な夜でした。今日はちょっと頑張れそうです。明日、地球カレッジ、年内最後の文章教室なので、幻妻の力を借りて、乗り切っていきたいとおもいます。

地球カレッジ

退屈日記「おれの妻がパリにも出現した。神出鬼没な妻に救われた夜」

※ だいたい、酔うと自撮りしている父ちゃん、あはは・・・



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