JINSEI STORIES
退屈日記「幻の妻が消える前に」 Posted on 2022/11/13 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、手術(抜歯)の日が14日月曜日と決まり、逆に覚悟はできたのだけど、落ち着かない夜であった。
夕方、プロモーションビデオの撮影が終了した。
いいものが撮れたと思う。カメラマンの大ちゃんは福岡に帰って行った。
夜の東京を舞台にした、久しぶりの本格的なプロモビデオになる。ほっとした。
ぼくは大ちゃんと渋谷で別れて、東京の中心を一人歩いた。
西麻布の交差点にあるホテルに行きつけのバーがあった。
料理も出すバーで、シェフはHさん、Hさんばかりだけど、みんなHさん、菱沼さん、橋本さん、古田さん、ヒトナリさん、みんなシェフはHなのであーる。あはは。
「あれ、珍しい。辻さん」
白髪頭のHさんが出迎えてくれた。
「ご無沙汰しています。ちょっと呑んでいってもいいですか?」
「どうぞ、お好きな席で」
角席に陣取った。「これはぼくからです」と言って、シェフが好物のシャンパーニュを出してくれた。それから、可愛らしい胡麻のアミューズも(美味しい!)。
パリの自宅に戻れないので、ストレスがマックスであった。
人間関係が厄介過ぎる。いろいろと面倒くさいことばかりだ。創作する人間の気持ちなんかわかってない!
この年齢になって、顎で使われている、と思うことばかりなのが、笑える。
でも、我慢しないとならない。作品を待ってくれている人が一人でもいるなら、ぼくは実務に専念するだけだ。今は頑張る。とにかく、やらないとならない。
ここには書けないことだらけ。手術も迫っているし、よし、呑むしかない。
ところがシャンパーニュじゃ酔わないので、いつものブラントンのロックにした。なんなら、氷とかいらない派である。
「あなた」
来た!
「あなた、だめよ。そんなに呑んじゃ」
「あ、お前か、よくわかったね、ここが」
「菱沼さんから連絡があったのよ。あなたが酔いつぶれそうだから、迎えに来てって」
「あの野郎」
「ダメよ、そういうこと言ったら、親身になってくださるお友達でしょ」
「君、いつ菱沼とライン交換したの?」
「え?」
ぼくらは笑いあった。ま、いいか、細かいことチェックしなくても・・・。
「でも、呑みすぎです」
「はい」
「食べたの? 夜ごはん。おうちに用意してありますよ。たいしたものはないけど、あなたの好きな筑前煮、メンチカツ、どう?」
口元が緩んだ。グラスを掴もうとしたら、幻妻がぼくの手首をつかんだ。
「やめときましょ。すいません、バーテンダーさん、お水ください、この人に」
バーマンが、水をぼくの前に差し出した。
でも、酔いがさめたら、また消えるんでしょ? いつも、いいところでいなくなる・・・。
最近、この幻妻が夢にも出てくるようになった。病んでいるのだろうか?
それだけ、ストレスが強いということだろう。誰にもこの辛さはわからない。
「わかるわよ。あなた、あなたはいつも言ってるでしょ? 誰の人生だよって」
「あゝ」
「それ、自分にこそ言わないと、誰の人生なの? 自分を酷使して、それでいいの? そんなに毎晩飲んで、わたしみたいな幻の妻を生み出して、一時的な安らぎを幻想して、ダメよ、それはよくないです。あなたらしくないわ。あなたの人生でしょ? 少し仕事を減らして、お酒も減らして、楽になってください」
涙がこぼれそうになった。バーマンが見ているので、泣くのは必死で堪えた。
「月曜日、大丈夫ですよ。たいしたことありません。あなたが抱えている大変に比べれば、日本のお医者さんのレベルは高いから、あっという間に終わります。でも、心の傷を縫うのは厄介ですからね。あなたは、まず、ご自分の心を治療をしないと」
「お前」
「はい」
「そろそろ、消えちゃうんだよね?」
「・・・・」
「ずっと、ここにいてくれないかな」
「・・・・」
「ぼくだって、幸せになりたいんだ。消えないでほしい」
「それは、・・・いいこと。これはあなたが生み出した寂しさの幻影だから、でも、いいですか、わたしはあなたの味方です。あなたが本当に苦しい時にはこうやって、いつだって、出て来て、支えさせてもらいますよ」
「ほんとう?」
「ええ」
ちょっと小太りで、こめかみにうっすらシミもあって、でも、片方の頬にえくぼもできて、目の芯は強くて、なにより、安心感のある小さな女性なのだ。
この人が消えてしまうのが分かった。
でも、涙をこらえて、ぼくはブラントンを舐めた。
「辻さん、」
「わかってるよ。もう帰るよ」
バーマンが菱沼シェフを呼んだのである。別に菱沼さんに当たらないでもいいのだけど、邪魔された、と思ったのだった。消えちゃったじゃないか、ぼくの大切なものが・・・。
「歩いて帰れますか? タクシー呼びましょうか?」
「大丈夫、ここ西麻布だろ? タクシーなんかびゅんびゅん走ってるじゃん」
菱沼シェフが笑った。ぼくはどうしようか、悩んだ。隣のスツールを見たが、いなかった。いなかった。いなかった。
「でも、もうちょっといさせてくれないか。もう、呑まないから、ここで優しい妻の余韻に浸っていたいんだ」
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
無事に、宿には帰れました。だから、この文章を書いているわけです。ストレスはね、目に見えないですからね、皆さんも気を付けてください。ダメだと思ったら、幻妻が言ったように、誰の人生ですか、って自問してみたらいいかもしれないですね。えへへ。
※、菱沼シェフに「じゃあな」をしている父ちゃん。このあと、タクシーを自力でひろい、連れ帰ってもらったのであーる。運転手さん、ありがとう。こんな野郎がふらついていたら、そっと見守ってやってくださいね・・・。