JINSEI STORIES
滞日日記「全身麻酔ではないようだとの情報を受け取り安堵の父ちゃんですですです」 Posted on 2022/11/10 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、昨日は、ずっと暗く落ち込んでいた。原因は「歯の手術」である。
歯茎の中に隠れた歯(虫歯の親知らず)を切開し引き抜くという、その想像だけで卒倒しそうになっていた。
歯科衛生士さんは「手術室」でやる可能性もあります、と言った。
全身麻酔を覚悟した父ちゃんであった。いや、これは暗くなる。舌先で確認をしても、歯そのものがどこにも存在しないのだ。
歯茎の下に埋没してる親知らずを抜くって、素人的には想像も出来ない。なんて、恐ろしいことであろう。
しかも、右上の一番奥の歯茎を切開する。その下に隠れている親知らずって、相当に世間知らずだと思った。
虫歯だから脆い可能性もあるわけで簡単な手術ではないだろう。そのせいでぼくはずっと暗かった。
どれだけ暗かったかというと灯りもつけないで部屋の床でうなだれ、絨毯をじっと見ていたのである。気が付いたら夜で部屋は真っ暗だった。
それほど、暗かったのである。めっちゃ、ビビっていたのである。
食べる気にもならないし、厭世的になっていたし、動く気にもなれないので、明かりが消えた部屋でずっとうなだれていたのだった。
それで、このままじゃ、鬱になると思い、クリニックの先生に、
「どういう手術になるんでしょうね? 何時間くらいでしょうか? 全身麻酔? 頼むから教えてください」
とメッセージを送ったのである。先生、忙しいのだろう、これが、待てど暮らせど、なかなか返事が戻って来なく、夜、遅くにやっと返事が来た。
「辻さん、これはぼくの想像ですが、全身麻酔ではなく局部麻酔ですむのではないか、手術時間も一時間程度じゃないかと思うのです」
今日は新宿で「ガラスの天井」という曲のプロモーションビデオの撮影を行った。
といっても、カメラマンの大ちゃんと二人で新宿の路地を歩きながらの、ドキュメンタリー的ゲリラ撮影である。
パリで作っているアルバムの中から「ガラスの天井」を選んだ。
ぼくの馴染みの東京をカメラマンと歩き、ドキュメンタリータッチで撮影する。今週いっぱいかけて、新宿、渋谷、原宿、赤坂、銀座、あちこちの路地をひたすら歩くのである。
今日は新宿駅前、歌舞伎町や新宿三丁目などで撮影を行った。
新宿は若い人ばかりだった。
「大ちゃん、ぼくはここで19歳の頃、アルバイトをしていたんだよ。新宿でぼくはECHOESを結成したんだ」
光陰矢の如し、40年も前のとだ。
何も変わらない駅前の交差点を歩いた。大勢の人と一緒に交差点を渡った。
あの頃の人はもう誰もいない。ぼくを知っている人もいなかった。
すれ違う人は、みんな若い人たちばかりであった。
人は入れ替わったけれど、街はそのままだった。末廣亭もあり、紀伊国屋書店もあり、伊勢丹もあったし、バー「どん底」もったし、ゴールデン街もそのままだった。
ただ、当時の人はもう誰もいなかった。不思議だけど、大勢の人が死んで、ぼくが19歳の頃には生きてもいなかった人たちがそこに集結していた。
「大ちゃん、ここは三島由紀夫さんがよく来ていたバーなんだよ」
中洲の夜の帝王ことHプロデューサーが合流し、ぼくらは新宿三丁目のスペインバルで杯を交わした。というのも、一昨日、大ちゃんは入籍したのだった。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
大ちゃんは映画「中洲のこども」のカメラマン、Hさんはそのライン・プロデューサーなのである。
明日、映画の本編集があるので三人は東京に集結していた。その空き時間を利用して、ぼくと大ちゃんはPVを撮影しているのである。
Hさんは夜の帝王なので、そわそわしていた。「結婚したばかりの大ちゃんを変なところには連れて行かないで」とぼくは釘を刺した。
「いえいえいえいえ、そんなことめっそうもないですですです」
奥さんの写真を見せられた。可愛い人だった。
「あのですね、お布団みたいな温かい優しい子なんです」
この表現、ぐっと来た。
「Hさん、頼むからこの新婚の大ちゃんをキャバクラにだけは連れて行かないでくださいね」
「いえいえいえいえいえいえ、ぼくはそんなところ行きませんですですです」
「でも、Hさんは夜の帝王じゃないですか」
「スポンサーを連れていくだけですですです」
出た、と思った。この人の口癖なのだ。ですですです・・・。
ぼくらは大笑いになった。
「凄い映画になりますね」と大ちゃんが言った。
「つながった絵を見て感動しましたですですです」とHさんが言った。
ぼくらは映画の完成を祝ってもう一度乾杯をした。
ぼくは締め切りがあったので、彼らを残して宿に帰ることになった。
この日記を書いていると、Hさんからメッセージが届いた。
「今日はありがとうございました。残念ながら、大ちゃんはゆっくり休みたいとのことでしたので、今日は明日の本編集に備えて解散となりました。本当ですですです。明日もよろしくお願いします」
ぼくは、うっそ~、と返しておいた。
「いえいえいえいえいえ」
「ですですですです」
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
映画の仕上げ作業は順調です。とってもいい映画になるでしょう。雑音を振り切って、仲間たちとゴールを目指して頑張ります。あ、そうだ。数日前に、8刷5千部が決定したばかりの「父ちゃんの料理教室」(大和書房刊)ですが、今日、さらに9刷5千部が追加決定しました。なんかしらないですがバカ売れしていますね。何があったんでしょうか・・・。ま、雑音を排して、ぼくは粛々と生きていきます。