JINSEI STORIES
退屈日記「恋の出来ない父ちゃんが考える恋年齢と恋の意味について」 Posted on 2022/10/31 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、昔、江國香織さんと「恋するために生まれた」というエッセイ集を出したことがあり、恋に関する持論などを偉そうに書かせて頂いたことがあったが、この年齢になると、そもそも恋がどういうものだったかは記憶からとり出せても、いまさら恋をしようとは思わないのだ。
それだけ自分が年を取ったという証拠であり、考えようによってはあれだけの恋愛小説を書いてきたというのに、今、そういう作品が書けないのはある意味で年齢のせいかもしれない、と落ち込んでしまう。
年齢を重ねた人間にはその人なりの恋愛観があるとは思うのだけど、自分の人生を振り返ると苦笑しか起きず、恋する物語の執筆にはどうも手が伸びない。
とある出版社から「恋愛小説を」と依頼を受けたのだけど、お断りした。
ドキドキ、ハラハラを持っている若さがないと、こと恋愛小説というものを書くのは実に難しいのである。
「サヨナライツカ」とか「冷静と情熱のあいだ」のような作品の燃え上がる恋愛じゃなく、何もかも分かったうえで損得ではなく寄り添いあえるような愛がいいなぁ、と思うようになった。
切ないものではなく、温かいもの。
昔の自分だったら、たとえば若く素敵な女性をみたら、この人と恋をしたらどういう暮らしが出来るだろう。どういう関係のカップルになるだろう。毎朝、どうやって目を覚ますのだろう。一緒に生きるとどうなるのだろう、なんて想像をし、考えたものであった。
でも、今は、違う。素敵な女性をみたら、(笑わないでね)この子が自分の娘だったらぼくは父親としてどんなに幸せだろうか、喜ばせるためにどんなご飯を作ってあげるだろうとか、たまには会いに来てくれたらきっと幸せだろうな、なんて父親の気持ちで考えている始末。
これはもうやばい境地で、そういうことを想像している自分にがっかりしている。
女性を見つめるまなざしが父ちゃんの目線なのである。
実に情けない話だけれど、息子がガールフレンドを連れてくると、嬉しくてしょうがなくなって、パパ、そういうことしなくていいよ、と毎回叱られている有り様なのである。
そういう自分は可愛いとは思うのだけれど・・・。
じゃあ、ぼくはどういう愛を探しているというのだろう。
離婚の後、ママ友たちとぼくはずいぶんと親しくさせてもらった。
その中には当然異性として素敵だなと思う人もいた。でも、恋心ではなかった。
息子の親友のお母さんたち、みんな人生に多くの課題を抱えており、とくにご主人への不満などは大きかった。全員、大なり小なり、不満を持っていた。
そのうっ憤をはらす相手として、ぼくは重宝されていたのかもしれない。
日本人だし、作家だから、苦手な仏語だし、聞き手になる条件はそろっている。
でも、そういう素敵な同年代のマダムに対して、一緒に暮らしたらどうなるかな、とか、この人と夫婦だったらどういう暮らしになるかな、なんて、想像をすることは皆無だった。
ママ友はママ友であり、子育ての同士、同志に過ぎない。
じゃあ、ぼくはもう一生恋はしないつもりなのか、それはNOだ。恋くらいしてもいいだろう。では、どういう相手?
可能性としては、同じような作家とか、あるいは画家とか、ぼくが持ってない才能を持った人で、ぼくが「へー凄い」と思える人が出現をしたら、恋ではなく敬意から好きになるかもしれないな、と思うことはある。
そういう人はもちろん滅多にいないのだけど、いても家族があるだろうし・・・、当然。
もし今の自分が誰かに惹かれるのであれば、その人の外見とかではなく、何を生み出しているか、というものにときめく気がする。しかし、それは恋愛なのだろうか。
どんどん敷居が高くなっていて、まず、そんな人はどこにもいないのだから、この問題は今後のぼくの課題になるのであろう。ここまで書いて安心をして、苦笑している自分がいる。あはは。
「合言葉は熱血」
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
なので、出版社の皆さん、今は恋愛小説の依頼を受けるのが一番苦痛なのです。今書いている「動かぬ時の扉」は時空を超越して日付をシャフルさせこの世界の不条理を暴くような文芸作品なので、恋愛の要素がまるでなく、ある人にとっては面白くない作品なんだろうな、と苦笑しながら書いていますよ。絶対、本にしても読まれない作品、いいっすね、憧れます。
さて、お知らせです。
「ボンジュール!辻仁成のパリごはん〜 2022 夏〜」の再放送が決まりました。小さな声で、よっしゃー。
11月3日、文化の日の夕方の放送になります。
●再放送「ボンジュール!辻仁成のパリごはん〜 2022 夏〜」
【BSP】 11月3日(木) 午後4時35分~〜5時34分