JINSEI STORIES
滞仏日記「辻家の引っ越しに、思わぬ反対者が出現、ちょっと悲しくなったの巻」 Posted on 2022/08/30 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、引っ越しの準備が整い、引っ越し業者さんを待っていた。
自分の部屋が埃だらけなのでそこでは寝れない、と息子はソファに横になり、夜を過ごした。
引っ越し屋のミッシェルがやって来るのは朝の八時半、ぼくはその前に三四郎のごはんを食べさせ、近所を散歩した。
いつもより、早い時間の散歩だったけれど、快便、快しょんのさんちゃんであった。(最近、ポッポ(うんち)をすると、後ろ脚で砂をかける真似をして、それがね、めっちゃ、可愛いのであーる。どこで覚えた???)
けれども、八時半を過ぎても、運送屋さんはやって来ない。9時近くになって、ミッシェルから電話が・・・。
「あの、ムッシュ、それが、トラックが壊れて、動かないんです」
「ええええ!」
出鼻をくじかれるという日本語がまさにぴったりの状況・・・。
「十斗、トラックが動かないって」
「ええええ!」
二人で、えええ、となって、まさか、動けなくなった朝の9時であった。
「じゃあ、どうするんすか?」
「明日、トラックが用意できますから、もう一度、朝の八時半に、お願いします」
そもそも、ミッシェルは大手の引っ越し業者じゃなく、近所の管理人、ブリュノの知り合いで、こういう小さい物件専門の便利屋さん。
「普段、トラックは二台あるのだけど、もう一台はバカンスに出て、今日の夜、パリに帰って来る」
のだとか・・・。
夏休み中、使っていなかったトラックが動かない、というのはよくある話?
「わかりました。では、明日」
※ 引っ越しの準備は出来ていたのに・・・。
「今日、どうしたらいいんだろう?」
と息子が言ったので、パパも、と答えておいた。
「ってことは、今日、もう一日、ソファで寝ないとならないね」
ぼくらは笑いあった。
息子はすっかり引っ越す気分になっていたので、パソコンなどの貴重品だけ、新しいアパルトマンに移動させ、ウイリアムらとIKEAに買い物に行ってくる、ということで、気持ちを切り替え、家を出ていった。
不意に、明日の予定がてんこ盛りになってしまった。
明日は、ここのアパルトマン全体の引っ越しを依頼した大手の引っ越し業者さんが見積もりにやって来る。
同じ時間帯にぶつかることになるけど、ええい、しったこっちゃないわー。
小説教室の課題作品(エッセイよりは少なかったけれど、結構、ボリュームがあった)を読み終えた(レベルが高い)ので、授業で参考になりそうな作品を地球カレッジ事務局へと送った。
横浜ビルボードの映像をYouTubeにアップする作業をやりながら、地球カレッジの「小説教室」の進行について考えたり、もうすぐ、始まるレコーディングの選曲とアレンジのことをプロデューサー(ロブソン)と確認したり、途中で中断していた映画(中洲のこども)の編集作業などもやらなければならなくて、ぽっかり空いた一日は、あっという間に塞がってしまったのであーる。
人々がバカンスから戻り、通りに溢れていた。
そこかしこのカフェが一気にオープンし、会社員の人たちがテラス席を埋めていた。
この街ともあとひと月でお別れなんだな、と思うとちょっと物憂げな気分に包み込まれた。
散歩をしていたら、粗大ゴミとして捨てられていたクラブ椅子に街の哲学者アドリアンが座って、葉巻をふかしていた。
「やあ、エクリヴァン(作家よ)」
「おお、街の哲学者(フィロソフ)、太陽を独り占めだね」
「君は、夏を駆け抜けたようだね」
「まあね、日本でライブや映画の撮影をやってた」
「相変わらず、忙しい男だ。ちょっとはパリで休めるのかい?」
葉巻の煙が通り中に漂った。三四郎はアドリアンが大好きなので、彼の膝の上に飛び乗ろうとしている。おいおい、・・・。
「そうだ、実は、まだ誰にも言ってなかったのだけど、引っ越す」
不意に、アドリアンの顔が曇った。
「引っ越す。どこに?」
新しいアパルトマンの住所を言った。
「そんな遠くにか? それは寂しいじゃないか」
寂しい、という言葉が思わずごっつい顔から溢れ出て、こっちも寂しくなった。
アドリアンがサングラス越しにぼくを見上げている。
「一緒にコロナのロックダウンを乗り切った仲間なのに、君がいなくなると、この街のみんなががっかりするぞ。八百屋のマーシャル、肉屋のロジェ、パン屋のヴェロニク、ワイン屋のエルベ、バーのリコ、ユセフ、ニコラ、ロマン、カフェのジャンフランソワ、ブリュノ、スーパーのシダリア、ロミ、もっともっといっぱいいるだろ、君の物語の登場人物たちが」
「そうだね。確かに」
そのことを考えていなかったから、ちょっと確かに寂しい気持ちになった。
「ひとなりさん、そりゃあ、自分勝手というものだ」
「いや、でも、また、遊びに来るよ」
「ここに住んでいるからこその連帯感がある。たまに遊びに来ても、それは違う。ぼくは死ぬほどがっかりだよ。どうしてくれるんだ、ぼくの余生を!」
アドリアンが珍しく、肩を落とした。ぼくは悪いことをしたな、と思って、おとなしく帰ることにした。
「また、うちでご飯でもしよう。新しい家にカリンヌと一緒に遊びに来てくれたまえ」
「・・・」
口を真一文字に結んで、首を静かに振り続けるアドリアンであった。
つづく。
今日も読んでくれて、ありがとうございます。
引っ越し、こんなに寂しがられて、なんとなく嬉しいのだけど、なんか、哲学者の寂しそうな顔が頭に焼き付いて、こっちまで悲しくなったのでした。肉屋のロジェも引退するし、陽気なパリジャンたちだけど、寂しがり屋ばかりなので、・・・。NHKのドキュメンタリーも秋冬版があるので、どうなるんだろう・・・。