JINSEI STORIES
滞福日記「日常って、失ってみるとその偉大さに驚きます。毎日を丁寧に生きること」 Posted on 2022/07/23 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ふと気が付くと、ぼくは福岡市のマンスリーマンションの一室で、料理もせず、息子や三四郎から遠く離れて、いわゆる非日常的な生活を送っているのだ。
とある仕事をここでこっそりとやっているのだけれど、その理由は徐々にあかしていくことになるとしても、ともかく、今のぼくはパリでの生活とは180度異なる日常の中にいる。
ランチもディナーも作ることはないし、当然、夕飯の買い物に出ることもない。
息子に「ごはんだよー」もない。三四郎はいないので、お散歩もしていないなぁ。
コンビニで買ったものを食べ、時々、近所の見知らぬレストランや、ラーメン屋、定食屋で済ませている。
晩酌も、シャンパーニュやワインというよりもビールか焼酎という感じ、ピエール・エルメのケーキではなくコンビニのシュークリーム(これは美味い)、パリのようなカフェはないから、めっちゃ暑いので、自動販売機でアイスコーヒーを買って立ち飲みしている。
福岡自体は故郷のような街だし、そもそも活気があるので、毎日、旅行気分で楽しいのだけど、なにせ、日常がないのだ。
「パリの空の下で、息子とぼくの3000日」に書いた、まさにあの3000日のような日常が一切ない。
とにかく、やらなければならない仕事をここでいろいろとこなしているのである。
たまに、実家に行き、母さんに料理を作ることはあるけれど、喜ぶ母さんの顔は何よりもうれしいのだけれど、そこも、ぼくの日常ではない。
これまで人生を振り返ることなど滅多になかったけれど、時々、三四郎と田舎の浜辺を一緒に走っている時の青い空とか吹き抜けていく風を思い出しては、懐かしんでいる。
もっとも、秋には再び、日常が戻って来るので、今は忍耐しかない。
ぼくは笑顔も浮かべず、今はもくもくと仕事をこなしているというところである。
日常というのは、こうやって離れてみると、素晴らしいものだ。
近所のスーパーに行き、いつもの棚を眺め、かわり映えしない食材を手に取って、家に戻って、あの狭いキッチンで、でも、妙に落ち着くあの場所で、包丁を握りしめ、とんとんとん、とまな板の上のニンニクや、肉や、野菜をカットする、その当たり前の日々こそが、自分にとっては、実はかけがえのない宝物だったのだと気づかされたりしている。
三四郎と一緒に午睡をしたり、息子のために夜食を作ったり、いつもの机のいつものパソコンを開いて、文字を打つことの偉大さを、思い知らされている。
田舎の家の窓から見える海を思い出し、風にのって大空を舞うかもめたちのその勇壮な姿に感動をし、犬カフェでわんちゃんたちを通して親しくなった人たちとのささやかな交流などもあり、それはなにものにも代えられない素晴らしいぼくの、ぼくだけの人生なのだ、と思い知らされているのであった。
コロナ禍が酷くなり、フランスが全土でロックダウンをしないとならなくなった2020年の3月、その時にもぼくは日常を奪われることになった。
その時と今はぜんぜん意味合いが異なっているのだけど、外出制限がかかり、家から出られなくなった時に、ぼくと息子を支えてくれたのは、まさに、この日常であった。
日々を丁寧に生きる、というぼくの哲学が生まれたのも、この時のことであった。
もうだめだ、と何度も思ったが、ぼくは結局、一度もコロナに罹らずここまで生き抜くことが出来ている。それこそ、日常のおかげであった。
日に一度認められていた買い物に出かけ、食材を選び、今日食べるものを一生懸命考え、息子と二人で「いただきます」と「ごちそうさま」をやってきた。
あの過酷な日々は、逆の意味で、親子の絆を強くさせたし、あの時期を乗り越えられたことで人生に自信もついた。
いまだコロナは収束していないが、共生が可能なことに気が付くことができた。
コツコツ生きることの中に、自分らしさを見つけなきゃ、と思えるようにもなってきた。そういうことをバカにしない大切があることを、いまさらながらに、教えられた次第である。
福岡でのこの特殊禁欲生活のような中にありながら、ぼくは日々、ぼくに与えられた重要なミッションを遂行しているのである。
心の中では秋以降、戻って来るであろう日常を取り戻すために、まず、今はこの仕事をやり遂げることだ、と自分に言い聞かせている。
そして、この仕事はもうすぐひとまず、第一幕を終える。
その後、ビルボードライブに向けて、サポートメンバーのノブさん、キョンさん、トキエさんらとの練習がはじまる。そこにも、もちろん、パリ的な日常はない。
広いスタジオとホテルの往復生活がはじまるのだ。宿はいつもの宿なので、ストイックな生活を続けることになる。
ただ、東京の宿には立派なキッチンがある。だから、スーパーに行き、食材を買い、自分のための「一人飯」運動だけは再開することが出来る。
息子も秋から一人暮らしなので、毎日、お弁当を作っているとのことだ。いとこのミナから息子が作っているお弁当の写真が先ほど、届いた。
「なぜ、弁当?」
「なんかね、昔、ひとちゃんが、毎日、お弁当を作ってたでしょ? あれ、嬉しかったみたいだよ。彼はそれが忘れられないんだよ」
なんだよ、そうなら、ちゃんとパパの目を見て、一度くらい、そういってくれよ、と思った。
気安く言えないところが、あいつのいいところなのかもしれない。
つづく。
今日も読んでくれてありがとう。
なんだか、今は新しい人たちに囲まれているので気持ちを引き締めて頑張っているのだけど、その中でも、大ちゃん、てっちゃん、いえなちゃん、せいさん、ひーさん、ほかにもいっぱいいっぱい、新しい仲間たちが出来て、楽しかったです。福岡、ありがとう。また、来るね・・・。まっちゃんのご両親から頂いた、カステラ、超、美味しかったぁ。多謝。
さて、そんな父ちゃんからのお知らせです。
7月28日は父ちゃんのオンライン・講演会「一度は小説を書いてみたいあなたへ」と題しておおくりします。
一生に一度でいいから小説を書きたいけど、敷居が高くて、と半ば諦めかけている皆さん、そんなことはありません。ぼくがどうやって作家になったのか、どうやれば一冊書けるのか、など、講演会形式でお話をしたいと思います。
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