JINSEI STORIES
滞仏日記「パリ、土曜日の午後、ぼくが三四郎から学んだこと」 Posted on 2022/04/10 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、パリはあまりに心地よい快晴で、エッフェル塔周辺は物凄い人出、コロナ禍で戦争中とは思えないような長閑な光景であった。
ぼくは早朝、昼、午後と三四郎を散歩させ、たぶん、この日記をアップしたら寝る前にもう一度、散歩をさせる。
仕事と家事の合間に子犬の世話をして、ぼくの時間の大半はそうやって奪われていくのだけど、ま、決して、嫌じゃない。
だんだん、ルーティーンが出来あがりつつある。
ぼくの楽しみは、夕方、三四郎にお留守番させて、近所のカフェに軽くアペロ(アペリティフ)に出かけること。
今日は、ケヴィンのカフェに行き、いつもの席に座り、行き交う大勢の人を眺めた。
大勢どころではない。歩道から人が溢れ出そうな行列、これ、全員他人なのだからすごいねぇ。
パリ最新情報でお伝えした通り、パリは完全に観光客が戻ってきている。
しかも、コロナ禍前よりも多い人出だ。(コロナ、だんだん、忘れられているけれど、消えたわけじゃない!)
「すごいね。満席じゃん」
「ああ、フル回転さ」
ケヴィンが言った。
「儲かってしょうがないだろ?」
「休みたいよ。でも、またいつ世界が閉じるかわからないから、今は頑張っている」
「なるほど」
犬を連れている人も多い。
様々な犬種が人々の合間を行き交っている。ケヴィンの恋人のママがやって来て、
「あれ、今日、サンシーは?」
と笑顔で言った。
「お留守番」
「ムッシュも、たまには羽を伸ばさないとね。これはサービスよ」
と、イベリコ豚のソーシソンをくれた。え? いや、いいですよ。
顔を上げると、ケヴィン、ケヴィンの恋人のマガリ、マガリのママがぼくに向けて笑顔でウインクをした。
何だか知らないけど、いつも、貰ってばかりだが、そんなに物欲しそうな顔をしているのだろうか? (しているんだろうなァ。笑)
今日は苦みの強い、ブルックリンビールからはじめた。だから、ドライソーセージは最適であった。
三四郎を育てはじめて2か月が過ぎた。
わずか二か月だけれど、三四郎はぼくに様々なことを教えてくれた。
最初の頃、ぼくは三四郎を必死で躾けようと試みていた。
ピッピやポッポ(おしっこやうんち)が上手にできないと、怒っていた。
しかし、ドッグトレーナーのボーベさんに、「子犬が上手にできないのは当たり前です。しかも、まだ赤ちゃんなのだから。頭ごなしに怒るのは躾けじゃありませんね」と叱られた。
「犬が自分の思い通りにならないからと暴力をふるう人がいますが、そういう人間にペットを飼う資格はありません」
確かに、ぼくは三四郎があまりに悪さをする時、思わず、鼻をつかんだり、尻尾をひっぱったりしたことがあった。
ぼくはボーベさんに叱られてから、三四郎との向き合い方を変えた。
ボーベさんのところで学ぶ躾の訓練は、犬の訓練というよりも、ぼく自身が生き物と向き合うために必要な修行でもあった。
思い通りにならない世界に腹を立てても、どうにもならない、そういうことを三四郎から悟らさせてもらうようになった。
そういう飼い主の心理を読んでいるかのように、うちの三四郎はある時、ピッピやポッポも、そして、ちゃんと散歩も出来るようになった。
ボーベさん、あなたはすごい。
この2か月間、ぼくは三四郎や動物を通して、人間である自分の奢りを見つめるようになってきた。
先日、ぼくを批判する人間がいた。
同じ業界のその人が実に短絡的にぼくを批判したのだ。
ぼくは腹が立った。あまりに、酷い言いがかりだったからだが、でも、その時、ぼくは自分がいる世界が、そういう軽い世界なのだ、ということを同時に悟ったのだった。
ぼくがでしゃばるから、批判がおこり、ぼくを苦しめてくる。
ぼくは三四郎を見習わないとならない。
ボーベさんやジュリアなど、無垢なトレーナーたちの行動を見つめないとならない。
彼らは損得で犬と向き合っているわけじゃない。
犬が好きで、犬を通して世界を見ている人たちであった。
ぼくの知らないことをたくさん知っていた。
ぼくは彼らから学ぶべきことがあまりにありすぎたのだ。
ぼくは無理をしたくない。出来ることは出来るが、辛くなるなら無理をしない方がいいのだ、とぼくを批判してくる人間を眺めながら、考えた。
一番いい方法はそういう世界と関わらないことである。
ぼくは62歳で、血気盛んな人間ではない。
もう、それなりに生きた熟年おやじなのである。
店の中は、半分が(たぶん、発音から)アメリカ人で、残りの半分がフランス人と欧州人であった。
三四郎が一緒だと、みんなに声をかけられるが、ぼくひとりだと誰も声をかけてこないのが不思議だった。あはは、いや、当然なのだけど、三四郎はすごいなァ、と思った。
なぜ、人々が三四郎に近づいてきて、三四郎に触れたがるのか、もちろん、可愛いからだろうけれど、でも、それはどういうこと?
ある日、若い女性が、触ってもいいですか、と英語で聞いて、いいいよ、と言ったら、鼻先を指先で触れて、感謝します、と言い残して去って行った。
エッフェル塔の下を歩いていると、アメリカ人やイタリア人やフランス人やエジプト人やアラブ人の方々が、キュート、と言いながらぼくらの行く手を塞ぐのだ。
彼ら、人間は子犬に何を求めているのだろう。
彼らが三四郎に送る微笑みに、嘘はない。
それは本当に無垢な笑みなのだ。三四郎は自然体で、当たり前のように彼らの愛を受け止めている。
彼は誰に対しても媚びないし、怖がらない。
思えば、不意に、この子はぼくの元にやって来た。ぼくが子犬を飼うことをあきらめかけていた時に、出現したのだ。
昨日、スペイン人の家族5人が、いいですか、ちょっとこの子と触れ合っても、と英語で言ったので、どうぞ、といつものように返すと、まずは子供たちが、それからご両親が三四郎を抱きしめた。
三四郎は普通にしていたけれど、人間はみんな喜んでいた。これは何だろう、とぼくは思った。奇妙な光景じゃないか・・・。
この子がスペイン人の家族をなぜこんなに癒すことが出来るのか、ぼくは考えた。
みんな口を緩めて微笑んでいる。その笑顔は汚れない美しい微笑みなのである。
一方で世界のどこかで、残虐な殺戮が繰り返されている。
大人が子供を殺している。無抵抗な人間を後ろ手に縛って頭を撃ちぬいている。戦車で走行している車を踏みつぶしている。
これは同じ人間の仕業なのである。
その人たちにも家族がいるし、ペットがいるだろう。
なぜ、人間が人間をそのように扱えるのか、これは戦争犯罪とかではなく、間違いなく、人間性への挑戦である。
ぼくは家に帰り、三四郎にご飯を与えた。
ぼくが肘掛け椅子に座ると、食べ終わった三四郎がぼくの横に飛び上がって来て、ぴたりと寄りそい、座った。
ぼくは三四郎の頭をさすった。
「三四郎、人間はほんとうに不完全で愚かだ。君たちは虐殺しあうことがないというのに」
つづく。
今日も読んでくださり、ありがとう。