JINSEI STORIES
滞仏日記「三四郎がメイちゃんに一目ぼれの初春の退屈な日曜日であった」 Posted on 2022/03/21 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、何もすることがなく、とっても退屈な日曜日であった。
家でごろごろしているのは不健康なので、三四郎を連れて、エッフェル塔周辺の路地を散策していると、ばったり、街の哲学者アドリアンと出くわした。
珍しく奥さんのカリンヌが一緒であった・・・。
「やあ、フィロソフ(哲学者)、そしてカリンヌ」
「おお、エクリヴァン(作家)久しぶりだね。ご機嫌いかが」
ぼくらは、エッフェル塔を見上げながら、ウクライナ危機について、語り合った。カリンヌは国際弁護士さんだ。
「この戦争は長引くかもね。終わってもまた始まる、そういう戦争になるかもしれない」
「そうだね。核戦争になったら世界は終わるから、プーチンを刺激しないように落としどころを見つけていかないとならないものね。ロシア国民が声をあげてプーチン政権が倒れるなんてことは夢の夢で期待はできない」
「ウクライナの過酷な厳しさを欧州人は他人事みたいに横目で見続けていかないとならないんだ、これは苦しい状況だよ」
ぼくらはとりとめもない話を、繰り返した。こうなるだろうという出口が見えない。やれやれ、とアドリアンがつぶやいた。
「なんて名前なの?」
カリンヌが三四郎を覗き込んで話題を変えた。アドリアンが、サンシロー、と教えた。
「こういう存在に逃げたくなる時代よね。かわいい、という言葉で自分を宥めている」
とカリンヌが告げた。
昼過ぎ、ぼくはあまりに退屈なので、オペラのうどん屋のおやじ、野本こと「呑もちゃん」をエッフェル塔脇のカフェに呼び出した。
三四郎が我が家にやってきてからのこの一か月、ほぼ禁酒の日々だったので、久しぶりのアルコールは五臓六腑に染み入った。
それにしても、退屈だから呼んだのに、呑もちゃんの日本語は相変わらずやばかった。
「あ、ほなら、あれやね、ほら、なんか、なんでもいいから、だから、それそれでええって、な、そうやろ? そうなるやろ?」
って、会うなり言われたけど、どこにも主語がなければ動詞もない。
何を言っているのか理解できるのは奥さんのますみさんくらいであろう。
「何のこと?」
「あはは。ま、そういうことや」
これでフランスで最も有名な和食店のオーナーの一人というのだから、やれやれ。っていうか、そんなに日本語が下手で、フランス語は通じるんのか、って話である。
「あんな、ますみのお父さんがな、ほら、フランスが好きで、そういう理由じゃ」
は? それで意味が分かるやつがどのくらいこの世におるんじゃ、と思った。
そういう人なので、話すことは一瞬で消え失せてしまった。
けれども、話すことがない状態で、2時間、三四郎と呑もちゃんとカフェで対峙したのである。2時間もだ。2時間・・・、まさに不毛なカフェタイムであった。
あまりに会話にならないので、誰かを呼ぼうか、とぼくが提案をした。
お、ええね、と呑もちゃんが満足そうに、告げた。
ぼくは前から野本のうどん屋に元ニュースウオッチ9のキャスター、有馬嘉男さんご夫妻を連れて行きたかった。有馬さんは三四郎とご自分が飼っているヨークシャテリアのメイちゃんを会わせたがっていた。
点と線が繋がったので、電話をしたら「すぐ行きます」となった。あはは。
これで、話の通じない呑もちゃんとの間に話の通じる人が加わることになった。めでたし。
ぼくの膝の上で、ぐったりしていた三四郎だったが、有馬さんが連れてきたメイちゃんを見た途端、むっくと起き上がり、目を見開き、メイちゃんをじっと見つめだした。
飼い主だからわかる。三四郎がいつもと違う・・・。
メイちゃんは赤いリボンを頭につけている。そうだ、メスなのであった。
しかし、メイちゃんは三四郎を見ない。
「ツンデレなんです」
と有馬さんがおっしゃった。
三四郎は一生懸命、アタックをしているのだけど、目の前にいるメイちゃんは僅かに視線をずらしている。サンシロー、がんばれ・・・。
ぼくらは夕食を一緒に食べようということになり、近所のタイレストランへと向かった。
その道すがら、三四郎は果敢にもメイちゃんに近づこうと努力していた。
けれども、メイちゃんは相手にせず、ちょっと怖がっている感じで、遠ざかって行った。
明らかに三四郎は相手にされていないのである。
それにしても、三四郎はちょっと強引過ぎる。
俺を見てくれ、と言わんばかりのワンパターンの猛突撃。
愛犬家の有馬さん、なんとなく、強引過ぎる三四郎に警戒心を抱いているみたいで、メイちゃんを自分の背後に匿っている。
三四郎は仕方なく、有馬さんの奥さんの奈保美さんにまとわりついて、尻尾を振りまくっていた。
有馬さんが近づくと、尻尾が動かなくなった。明らかに動きが止まった。
恋路を邪魔するおじさんと思っていたのかもしれない。
子犬の心はぼくにはわからない。有馬さん、ありャま、であった。
それでも、三四郎は諦めず、身体が伸びる限り、メイちゃんに近づこうと頑張っていた。その健気な姿は、ぼくを切なくさせた。
カリンヌが言った、「こういう存在に逃げたくなる時代よね。かわいい、という言葉で自分を宥めている」を思い出してしまった。
みんながタイ料理を食べている間、メイちゃんと三四郎のあいだには長いテーブルが横たわっていた。とっても長いテーブルである。
食後、外に出ると、三四郎が再び、メイちゃんを追いかけようとしたが、有馬ご夫妻に守られて、メイちゃんは優雅に去って行かれたのであーる。
「あれやね、ええ人たちやね」
と忘れた頃に呑もちゃんが口を挟んで、退屈な日曜日が終わることになった。
つづく。