JINSEI STORIES

滞仏日記「三四郎、ついにカフェ犬になる」 Posted on 2022/03/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、毎朝、九時くらいにぼくと三四郎は散歩に出かける。
エッフェル塔周辺の芝生で小一時間遊ぶのだ。
ついでに、途中にあるモジャ男(髪の毛が爆発している)のカフェでカフェオレを飲むのが、ぼくの日々の習慣でもある。
モジャ男も子犬を飼っているから三四郎のことはお気に入りで、以前は、ぼくがよそを向いている隙に、勝手にパルメジャーノ・チーズを与えてしまい、鼻のいい三四郎はチーズの虜になってしまった。
三四郎に長生きしてもらいたいので、ぼくは決して人間が食べるものは与えない主義だが、一度覚えた味は忘れられないねぇ・・・。
これが困ったことに、イタリアンレストランに入ると、三四郎がパルメジャーノに反応するようになってしまい、ある時、「食わせて~」と大暴れしやがった。
「余計なことしやがって」
とモジャ男に抗議したら、この給仕はなんと小皿にパルメジャーノを入れて持って来た。そして、三四郎の前に置いて、ニカっと笑ったのである。
てめー。

滞仏日記「三四郎、ついにカフェ犬になる」



ということで、三四郎は、モジャ男のカフェの前を通過するとき、必ず、前脚と後脚を地面にべたっと伸ばして、動かなくなる。
テラス席のお客さんらの笑いものになっても、動かない。
困り果てていると、モジャ男がやってきて、
「カフェ犬になったな」
とぼそっと呟いた。
カフェ犬、何じゃ、そのネーミング。
「だからさ、この辺のワンちゃんたちはみんなうちの前を通る時、そのポーズをとる。べたって地面にへばりついて動こうとしない。カフェが好きなんだ」
「なんでカフェが好きなの? 君が犬たちにチーズをあげるからでしょ?」
まさか、とモジャ男は手を振り下ろすジェスチャーをやり、苦笑した。
「あの、奥のマダムを見てごらん」
テラス席の一番端に座るご年配のマダムの足元にコッカースパニエルがいる。コッカーちゃんは地面にへばりつく三四郎をじっと見ている。
「ちょっと前までは、ご主人があのワンちゃんの散歩係でね。ムッシュは同じ席で毎日、ビールを飲んでいた」
「おいおい、そんな悲しい話すんなよ」
「わかるのか?」
「わかるよ、その人は亡くなったんだろ」
「ご名答。それも去年の暮れに」
ぼくは、足元にへばりついている三四郎を抱き上げた。



「ご主人は毎日、ここでビールを飲んだ。だから、主人がビールを飲んでいる間、あのワンちゃんもあんな風に座って待っていた。ところがご主人が急逝した。今年になって、奥さんがあのワンちゃんを連れて散歩するようになったんだけど、あの子はうちの前で必ず、サンシーと同じように足を投げ出して動かなくなった。奥さんは理由がわからない。そこで、おいらの登場だ。理由を説明したら、目に涙を浮かべていたよ。でも、それから毎日、ここにやって来て、同じ席に座って、もっとも、彼女は呑まないから、ミントティーだけど・・・。そして、あのワンちゃんは、あそこで、亡きご主人のことを思い出している。わかるか。犬っていうのは、人間に恩を感じて生きていく、忠犬というだろう。サンシーは俺が与えたチーズが忘れられない。だから、ここを素通り出来ないんだな。俺に忠義を感じている」
ぼくは鼻で笑った。
「このカフェに集うワンちゃんたちはみんな、飼い主たちの想い出を持って生きている。だから、ここを素通り出来ない。奥にいるラブラドールもそうだ。ここの前を通る時、勝手に、店の中に入って来る。ご主人が店の外で行こうと合図を送っても出て行かない。カウンターのあたりでうろついているんだ。うちはありがたいよ。客を連れてきてくれるからね。パリのカフェは犬にとっても憩いの場所なんだよ。ギャルソンはみんな犬好きだし。サンシーだって、カフェでのんびり和みたいんだ」
ぼくは頷いておいた。
「エスプレッソ」
「OK」

滞仏日記「三四郎、ついにカフェ犬になる」



三四郎よりちょっと大きなワンちゃんたちは、みんな地面に座っておとなしく待っている。後ろにいるラブラドールの前に、モジャ男が水の入った皿を置いた。まるで人間みたいに、みんなじっと待っている。このカルチエ(地区)で生きているワンちゃんたちにとって、カフェは家と公園とをつなぐムーディな場所なのかもしれない。
三四郎は子犬なので、ぼくの膝の上にいる。ぼくは神経質だから、とてもじゃないけど、三四郎を地面に座らせることが出来ない。幸いなことに彼は4キロ程度の重さだから、ぼくの膝上に収まってくれる。
マダムが立ち上がり、コッカースパニエルのリードを引っ張って、歩き出した。
老犬は老女の横にぴたりと寄り添った。それはまるで、自分が亡きご主人の役目を担わなきゃならない、と悟っているかのごとく・・・。頼もしい忠犬である。
ぼくと三四郎の目の前を通り過ぎて行った。三四郎は大きなコッカースパニエルにびびっていたが、老犬は赤ん坊のサンシーのことなど眼中にはなかった。

つづく。

滞仏日記「三四郎、ついにカフェ犬になる」



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