JINSEI STORIES
滞仏日記「不意に動けなくなり、逃げ出す三四郎、そっちはダメだ、さんしろー!」 Posted on 2022/03/02 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、三四郎を抱えて散歩に行こうとして、手を伸ばした次の瞬間、もの凄い痛みが背筋を駆け抜け、ぼくは動けなくなってしまった。
昔からたまになるのでよくわかる、これは間違いない、肋間神経痛なのであった。
呼吸ができない。呼吸をしようとするとずきんと肺の周辺、特に背中に電流が駆け抜け、おおお、となる。
壁に手をつき、落ち着くのを待った。
足元の三四郎が父ちゃんを見上げているが、動けない。
む、息子はどこだ、と振り返ったが、部屋が暗い。出かけているようであった。
ぼくの場合、ほっておくと自然に治るが、だいたい完治までに、24時間かかる。
脊椎に問題がある場合もあるので、本当なら医者に行かないとならないのだけど、多分、原因はわかっている。
5キロ近い三四郎を抱えての毎日の階段の昇り降り、生き物を抱えているので、ぼくは彼の命を守ろうと無理な姿勢を繰り返している。腰などがやられているのかもしれない。
体力と若さには自信のある父ちゃんだが、それでも、62歳なのだ。
パリのアパルトマンは4階、田舎は5階、エレベーター無し。笑。
それを毎日、子犬を抱えて最低3回、多くて5回ほど昇り降りを繰り返している。
昨日、階段の途中でサンシーが動いたので、落としちゃまずいと思って、ひし、と抱きしめたのはよかったが、その時、何か、身体の奥の方で、ギクッとなった・・・・。
ともかく、お恥ずかしい話、若くないということである。いてて・・・。
「三四郎、今日は、散歩やめようか」
三四郎は理解したのか、自分のベッドの方へと戻っていった。ぼく?
戻れない。動けないのだ。何より、呼吸が苦しい。
壁に手をつきながら、しずかに移動し、食堂の扉をあけた。
風呂場に行き、お湯をはろうと思ったが、ちょっと上半身を動かすと、バキっと電流が走り、おおおおおおお、となってしまう。
いや、これは笑いごとではない。呼吸が出来ないのである。口を半分、鯉とか金魚とか、魚さんのように開いて、必死で空気を吸い込んでいるが、ぐ、ぐるじィ。
振り返ると、三四郎がぼくに近づき、背後からこっちをじっと見ている。
とりあえず、近くにある食卓の椅子に、両手を使って、なだれ込むように座ったのはいいのだけど、それがまた、めっちゃ激しい傷みを連れてきて、わおおおおおーん、と叫んでしまった。
暫くじっとしていると少しは動けるようになるので、ぼくはそこで様子を見ることにしたのだが、数分後、三四郎がテケテケテケっと、やってきた。
「こっち来ちゃダメ。あっちに行ってなさい」
いつもは食堂やキッチンに入らないようにドアを閉めている。
でも、手を伸ばしても届かないし、すでに三四郎は禁断の食堂に入り込んでいる。やばい・・・
キッチンにだけは行かせてはならない。
廊下がクランクした先に我が家のキッチンがあった。
問題は、玉ねぎである。犬にとって、玉ねぎは危険な食べ物なのである。
よくは知らないが、犬は玉ねぎの何かの成分を分解できないのだとか、・・・最悪の場合、死に至らしめてしまう、らしい。
普段は用心しているのだけど、あああ、買い物袋の中に玉ねぎが入っていることを思い出した父ちゃん。なんとか、阻止しないとならない。
冷や汗を搔きながら、三四郎の行動を見守った。
いつになく、下手に出た口調で、
「三四郎、ちょっとそっちはダメだからねー。いい子だねー、お部屋に戻ってね、じっとしておきなさい。あとで君が大好きなサーモンのおやつをあげるからねー」
と言ってみた。
三四郎がぼくを見上げて、尻尾を振っている。
抱きかかえて、三四郎の部屋へ連れていき、急いでドアを閉めれば済むことだ。
ドアまで2メートル。
死ぬ気でやれば、なんとかなるかもしれない。ぼくは決意し、立ち上がろうとした、その次の瞬間、
「うおおおおおおおおおおおおお!」
思わず、悲鳴があがった。
背中を駆け抜ける電流・・・悶絶の父ちゃん。笑いごとではない。こ、呼吸が出来ない。
ぼくは椅子に倒れこみ、今度は倒れこんだ衝撃で、
「わああああああ!」
と再び叫び声をあげてしまった。
ところが、驚いた三四郎が、キッチンへと足を踏み入れてしまったのであーる。ああああ!
「さんしろー、ノー、行っちゃダメだー、さんしろー、さんしー---」
声にならない声を張り上げる哀れな父ちゃんであった。
ぼくは、ぜーぜー、肩で呼吸をしながら、
「三四郎、ちょっと聞いてくれ」
と切願した。
「おいで! 頼むから、ちょっとパパのお膝の上に、おいで。よしよし、してあげるよ。ほら、おいで」
いつもの三四郎ならば、おいで、のポーズをすると尻尾をふって、飛んでくるところだが、入ってはいけないゾーンに入ることが出来たことで、好奇心が勝っている。
ダメだ。キッチンに行ったら、死んでしまう・・・。
普段は玉ねぎなどの葱類は三四郎が絶対届かない高い場所で保管してある。
けれども、今朝の散歩の帰りに、近くのスーパーで買い物をした袋を、そのまま、冷蔵庫の前に置きっぱなしにしてしまったのだ。というのも、三四郎が入り口でおしっこをして、その拭き掃除に追われて、スーパー袋のことを忘れてしまっていた・・・。
その袋の一番上に、たしか、玉ねぎが・・・や、やばい。
先日、犬用バッグの中を漁って、骨ガムを勝手に取り出して勝手に食べていた三四郎。
袋の中に何か美味しいものがあることをすでに知っている・・・。
冷や汗が出はじめた。
そうだ、ごはんだよ、と言えば、もしかすると、自分の部屋のケージの方に戻ってくれるかもしれない。
そしたら、ぼくはもう一度立ち上がり、食堂と三四郎の部屋との間のドアを閉めればいいのだ。よし、それでいこう。一か八かである・・・。
「三四郎。ごはんにしようか?」
三四郎が一度、キッチンの方を振り返った。ごはん、が効かない。
「ごはんだよ。お前の大好きなごはん。ごはー--ん」
ぼくは椅子を掴んで、腕の筋力だけで立ち上がり、なんとか立ち上がることに成功・・・。
「ごはー--ん、さんちゃー--ん。ごはー--んだよー」
火事場の馬鹿力というやつであった。よろよろと三四郎に近づき、苦しいけど、笑顔で、
「ごはー-ん。さんちゃー--ん」
と猫撫で声でいったのだけど、三四郎、くるっとぼくに背を向け、キッチンへと走りだしたぁ。オーマイガッ。
「さんしろー-、いけん、そっちは地獄だ、さんしろー。うわあああああああああああ、痛ええええええええええええ!!!!」
ぼくは三四郎を連れ戻そうと思わず身体をひねってしまい、想像を絶する傷みに襲われ、その場に倒れこんでしまったのである。
倒れこんだら、もっと痛い衝撃がぼくの意識をもうろうとさせた。
「さんしろー、すまない。お父ちゃんが悪かった。神様、ご先祖さま、お爺ちゃん、おやじ、頼みます。三四郎を守ってやってください」
とわけのわからないことをのたうち回りながらぶつぶつ言っていたら、
「パパ、どうしたの?」
と天から息子の声が降ってきた。
床に寝転がったぼくが薄目を開けると、三四郎を抱きかかえた息子君・・・。
「こいつが、風呂場に入ってきたから」
「お前、いたのか」
「シャワー浴びてた」
「そうか、じゃあ、部屋に戻して、ドア、閉めといて」
「おっけー。でも、そこで何してんの?」
「え、あ、運動」
息子が笑って、三四郎を連れて行き、今日の大事件はこれにて、1件落着。
ぼく? 今、これをベッドの中で書いているのであーる。
今日は冬休み中の息子に三四郎を全部ゆだねることにした。
痛み止めを飲んだので、今はなんとか、立ち上がれるまでになりました。
皆さん、子犬を飼うとこういう大変さも付随してきますので、くれぐれも健康にだけは、ご注意ください。てへへ・・・。
つづく。