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滞仏日記「エッフェル塔がウクライナの人々に寄り添うために、ウクライナ国旗になる」 Posted on 2022/02/26 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、「ムッシュ!エッフェル塔がウクライナ国旗色になっているよ」
と近所に住む二コラ君からメッセージが入り、さっそく、撮影に行ってきた。
真正面から見上げると、ウクライナの人々の気持ちと重なり、感情が込みあげた。
なんだろう、悲しい・・・。

ウクライナから目が離せない。
ウクライナ関連のニュースを読んでいるが、悲しくて、文字が滲んでしまう。
ウクライナの人々がいま、どういう夜をおくっているのか、朝を迎えようとしているのか、考えるだけで苦しくなる。
欧米を信じて核武装を放棄したウクライナを西側が守ることが出来ていないことは事実で、その失望こそが、この世界の現実だと思い知らされ、ぼくらが享受している平和の脆さを改めて思い知った。
日本も、周辺に核兵器を持つ国々に囲まれているので心配になる。
ロシア、ウクライナと地続きの欧州への飛び火も考えられるので、パリ・オリンピックなどと浮かれていらない状況が待ち受けているかもしれないのだ。
コロナがようやくピークアウトしたというのに、ここに来て「戦争」かよ、と溜め息しか出ない暗い1日であった。
昨日は世界各地で戦争反対のデモが行われたようだが、クレムリンの人たちは誰ひとり、聞く耳などもたないだろう。
1976年の9月6日、函館にソヴィエト連邦の最新鋭ミグ25戦闘機が飛来し、函館空港に着陸した。

滞仏日記「エッフェル塔がウクライナの人々に寄り添うために、ウクライナ国旗になる」



その時、ぼくは高校生であった。
窓ガラスが激しく揺れて、一瞬、教室が暗くなった。
見上げたぼくの目に、尾翼の中心に描かれた赤い星のマークが見えた。
歴史好きだったぼくは、それがソヴィエト軍のマークだとすぐに気が付いた。
その頃、ソヴィエトが攻めてきたら北海道は3分ともたない、と言われていたので、ぼくは立ち上がり、
「先生、戦争です。函館の上空にソ連の戦闘機が!」
と叫んだのだった。
学生たちは騒然となり、授業は中断され、みんなで上空を旋回する戦闘機を見上げた。
その日から、函館は世界中の注目を集めることになる。
着陸した戦闘機は黒いシートがかぶせられ、厳重な監視下に置かれた。
最新鋭の戦闘機が米国に渡る前に、ソ連軍が奪い返しに来るという噂まで立ち、しばらくのあいだ、ぼくの父や母を含め、誰もが得体のしれない興奮に包まれていた。
それが、世界を騒がせた「ベレンコ中尉亡命事件」であった。

滞仏日記「エッフェル塔がウクライナの人々に寄り添うために、ウクライナ国旗になる」



作家になってからもぼくは、ずっとベレンコのことを考え続けた。
彼がなぜ、家族や愛する人を置いて、たった一人亡命を選んだのか、ということを。
ベレンコ中尉は「自由とは何か」という大きな問いかけを持ち込んだのである。
ぼくは、ベレンコに会ってみたい、と思うようになった。
アメリカで暮らしていた30代の後半、あらゆるルートを使って接触を試み、ついに、その亡命パイロット、ヴィクトル・ベレンコ氏へのインタビューに成功する。
高校生の頃に見上げた、あの戦闘機を操縦していたベレンコ中尉とぼくは会ったのだ。
ニュースでちらっと見たシャープな軍人ではなかった。歳月が流れていたし、彼はかなりふっくらとしており、しかも、窶れていた。
自由を求めて祖国を捨てた男だったが、アメリカで見た自由は彼が想像していたものとは違ったようで、暫くはソ連の情報をもたらしてアメリカの国防当局に重宝がられたが、時代がかわり彼の役目は終わり、存在は忘れ去られ、ついにアメリカに対して不満を口にするようになっていた。
自由とは何か、ということを考える一つのきっかけになった。

滞仏日記「エッフェル塔がウクライナの人々に寄り添うために、ウクライナ国旗になる」

滞仏日記「エッフェル塔がウクライナの人々に寄り添うために、ウクライナ国旗になる」



キエフへ進軍するロシア軍部隊の中にも、戦争への懐疑心を持った人間が大勢いるのじゃないかと想像している。
祖国を防衛するために命を落とす覚悟で銃を持つウクライナ人と、命令で動いているロシア人兵士との間にある温度差も、この戦争の特徴じゃないか、と思う。
世界の指導者たちのプライドとかメンツのために殺されていく人々はたまったものじゃない、と思った。
そして、今、思わぬ怪物がこの世界の中心に向けて侵攻しているのだ。

滞仏日記「エッフェル塔がウクライナの人々に寄り添うために、ウクライナ国旗になる」



世界各地で戦争に反対するデモが起こっている。
昨日はレピュブリック広場に大勢の人々が集まり、ウクライナの国旗をふった。
そこにはロシア人もいたという。
いてもたってもいられない人々が集まり、自分のことのように戦争への反対意思を口々に叫んだのだ。
ウクライナは欧米への不信を持ったまま、ロシアに吸収されることになるのだろうか。
傀儡政権が出来た後も、レジスタンス抵抗が続くかもしれない。
アフガニスタンのように、その強い抵抗力が、あるいは10年後、ウクライナを解放するかもしれない。
でも、限りなく長い年月と、それだけの血が流されることになる。
今、元俳優の大統領は死を覚悟しているのだろうか。
幼い子供が命を落とした、という情報も流れている。
道端で、泣き叫ぶ、おばあちゃんの写真がフランスの新聞に掲載されていた。
昨日までの平和がそこにはもうない。
もはや、先進国という言葉など、意味がない。

つづく。

滞仏日記「エッフェル塔がウクライナの人々に寄り添うために、ウクライナ国旗になる」



滞仏日記「エッフェル塔がウクライナの人々に寄り添うために、ウクライナ国旗になる」

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