JINSEI STORIES
滞仏日記「愛犬との別れ」 Posted on 2022/02/22 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、その人とぼくは親しいわけじゃない。名前も知らない。
でも、ぼくは彼のことをよく知っている。
彼の奥さんが大金持ちだということも、彼はずっと働かないで犬の世話ばかりをして、後半の人生を生きてきたことも・・・。
それはぜんぶ、カフェの仲間たちから訊いたことである。
彼らは悪口を言ったわけじゃない。
その人が一日中、朝から晩まで、この界隈を、ミニチュアダックスフンドの老犬を連れて歩いているものだから、ギャルソンや店の客が、噂する。
否が応でも、ぼくは彼のことを知ってしまうのだった。
奥さんがどのくらいの資産家かは知らない。
ぼくの友人のブノワさん(この日記にも登場したあことがある)が持っている物件の一番広いアパルトマンに住んでいるらしい。
つい先週のことだ。
ぼくが三四郎を散歩に連れて歩いている時に、「夜の滑走路」とぼくが呼んでいる三四郎の散歩道でご夫妻とすれ違ったばかりであった。
「やあ、同じ犬種だね」とその人は言ったけど、奥さんは近づいてこなかった。
奥さんは毛皮を着ていた。その人はいつも同じ格好、冬でも、紺色のスタジャンなのである。
背が高くて、細くて、四角い顔をしている。
たぶん、80歳前後じゃないか・・・。
奥さんは大きな会社を経営し、彼は奥さんの連れ子を育てあげ、今は犬の面倒を見ている。
「俺が一人で育てたんだ」
3年前、リコの店の前で、愛犬を抱きかかえながら、彼はぼくに力説した。
街中のみんなに言いふらしている。
それがその人の誇りなのかもしれない。
3年前はもっとしっかりしていた。
でも、今日は目がうつろで、三四郎を抱きかかえるぼくのところにやってきて、
「その子と同じ犬種のうちの犬が消えてしまった。うんざりだよ。朝からずっと探しているんだ」
とぼやいた。
寒さのせいかもしれないが、手が細かく震えていた。
ぼくはびっくりした。
「え? それは大変だ。どこにもいないんですか?」
訊き返したが、その人はよろよろとすでに歩き出していた。
ぼくは心配になり、踵を返した。
もし探せるなら一緒に探したほうがいいかな、と思って、・・・。
その人は交差点で、家具屋のクラウスや、クリーニング屋の主人、管理人の老女ドラガーを捕まえ、
「消えたんだよ。いなくなってしまったんだ。あいつが・・・」
と訴えていた。
街の人たちにしたら、その人とミニチュアダックスフンドの老犬が散歩する光景は、いつもの見慣れたこの街の一部だった。
だから、人々の表情は驚きと困惑と悲しみが入り混じるものだった。
ぼくもそこに加わった。
「なんでいなくなった? いつ、どこで?」
セビリア出身の管理人、ドラガーが震える声で訊ねた。
「知らない。分からない。とにかく、家の中にいないんだよ」
今度は、デンマーク人の家具屋のクラウスが口を挟んだ。
「いないって、ドアをあけて、自分で出ていくことはないでしょ?」
「それはこっちが聞きたいよ。探したけど、見つからないんだ」
クリーニング屋のご主人(名前は分からないが、中東系の優しい人だ)が言った。
「奥さんには、伝えましたか?」
「妻? あいつは仕事で今週末まで外国にいるから、ぼくが探さないとならないんだ」
ぼくらはお互いの目を素早く覗きあった。
ぼくが彼らに言いたかったのは、その人の目がちょっと変だ、ということ。
つまり、焦点があってない気がする。
三年前、自分が奥さんの連れ語を育てたと自慢した時の、あの自信に溢れた強さが消えうせて、まるで認知症かと思わせる鈍い目つきなのである。
そのまま家に帰る気にはなれず、周辺を探し歩いた。
三四郎の散歩を兼ねて、小一時間、それ以上、ぼくは自分の住む界隈の小公園や教会の前や、犬が彷徨っていそうな路地などを巡ったのである。
でも、見つからなかった。
行きつけのカフェに入り、馴染みのギャルソンにあの人と老犬のことを訊いてみた。
「さっき、訊いたよ。ワイン屋のエルベが言ってたけど、みんな驚いていた」
ギャルソンのジャン・フランソワが言った。
隣の席にいたイタリアレストランのオーナーのエステルが、
「みんなが手分けして、この辺の公園とか、路地とか探しに行ったそうだけど、見つからなかったって」
と言った。
すると、ぼくの後ろにいた警備責任者のブリュノが、
「ぼくはそうじゃないと思う」
と言い出した。
ぼくらは一斉にブリュノを振り返った。アフリカ出身のこの人は非常に博学で、優しく、この界隈の人々の信頼を集めている。
「彼は、どこかに犬を置いてきてしまったんじゃないかな」
ぼくはびっくりした。
「彼は一年くらい前から、小言を言っていた。面倒くさい人生だと・・・。この子を育てることがぼくの大事な仕事なんだ、と漏らしていた。わかるかな?」
「わからないわ」とエステル。
「彼は少し前から様子がおかしかった。何か、話が通じなくなっていた。自分がとっても辛い状況にある、と言ってた」
「だからって、どこかに置いてくるってことは考えられないでしょ? あんなにいつも一緒だったんだから」とぼくが口を挟んだ。
「わざとじゃないよ。魚を放流するみたいに、だ」
「魚を放流?」とギャルソンのジャン・フランソワが苦笑しながら、告げた。
ぼくはなんとなくだけど、ブリュノが言いたいことの意味が分かった気がした。
「その犬に自分を重ねて、どこかで逃がしてしまったんだよ。でも、そのことを覚えてないのかもしれない」
「そんなことするわけがないわよ」とエステルが言った。
ぼくらは黙った。
ぼくの場所から、交差点を行きかう人々が見えた。
いつも、どこかですれ違う人々であった。
昼食を食べた後、ぼくは三四郎を獣医さんのところに連れて行き、新しいおもちゃとお菓子を買った。
次の検診の予約もとった。
その時、ふっと、ミニチュアダックスフンドの老犬とあの人のことを思い出したので、受付の人に、今朝、こんなことがあったのだ、と喋ってしまった。
「なるほど、十歳のテッケル・ナン(ミニチュアダックスフンド)ですね、たぶん、うちで診ている子ではないけど、でも、見つかる可能性はありますよ」
と受付の人が言った。
「ほんと? どうやって?」
「ほとんどの犬は、生まれた時にチップを埋め込まれてます。もしも、誰かが迷子の犬を見つけたら、だいたい私たちのところに連れてくる。で、私たちが情報を読めば、誰が飼い主かわかるんです。そうやって、実際に、迷子の犬の飼い主を探したことがありますよ」
「本当ですか?」
受付の人は頷いていた。
自分が、三四郎と生き別れたら、と思うと、胸が痛む。
十年近く、ずっと毎日、世話をした犬がいきなり行方不明になるだなんて、想像しただけでも気が変になる。
ブリュノが言ったようなことが、彼の頭の中で起こっているとしたら・・・、それはもっと悲しいことでもある。
ぼくは三四郎をぎゅっと抱きしめた。
家に戻り、夕飯の準備をしながら、あの人のことを考えた。
あのミニチュアダックスフンドの老犬が戻って来ないなら、あの人の奥さんは、どう思うだろう、と想像してみた。
彼女は高齢の夫を責めるだろうか?
それとも一緒に悲しむだろうか?
あの人は明日、どうするのだろう・・・。
ぼくは祈った。
あの老犬が、善意ある人に保護され、獣医さんのところに届けられることを・・・。
つづく。