JINSEI STORIES
第六感日記「昨夜、ぼくは去年亡くなった人と交信をした」 Posted on 2022/02/09 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、昨夜、ぼくの夢の中に、去年亡くなった人たちが現れ、少しのあいだ、語り合った。
一人はぼくの元秘書の菅間さんだった。
「辻さん、大丈夫ですよ。だから、ご自分を信じて、ゆっくりと生きてください」
そういう話しであった。
夢なのだ、と言ってしまえばその通りだけど、でも、眠っているからこそ、霊界と交信が出来たのだ、と思う。
菅間さんがなくなった後、会社の情報などが出てこず大変だったので、霊界の菅間さんもちょっと恐縮されていた。
「でも、菅間さんのおかげで前進出来ています。あなたこそ、どうぞ心配しないで。安らかに眠ってください」
とぼくは伝えた。
その手触りではなく、心触りが、ぼくの中に残った。
ぼくは霊魂を信じている。
菅間さんがこの星から消えたけれど、菅間さんの思念は残って、ぼくにある種の波動を送って来る。
亡くなった人のことを忘れないことが生き残った人間の仕事である。
だから、ぼくは夢の世界を通じて、彼女と交信が出来たのだ、と思う。
それはいい兆しを連れてきてくれた。本当に、朝起きたら、いいことが続いた。
コロナ禍のこんな世界だけれども・・・。
ぼくは今でも彼女を信頼している。
そして、信じることが大事だ。
ちなみに、霊はそこかしこにいるので、ぼくは小さい頃からあまり気にならない。
霊は、人間がそこにいるように、ぼくにとっては普通の存在なのである。(存在という言葉を超えたもの)
物心がついた頃から霊の存在に気が付いていたので、危ない人間に近づかないのと同じように、ちょっと手ごわい霊がいるなと思ったら、その場所から離れる習性が出来ている。ふふふ。
霊界と現世界は同じ場所を共有しているので(個人的見解です)、いて当然なのだけど、守護霊に守られている人はほぼ霊を見ることが出来ない。
きっと、ぼくも守られているので、映画に出てくるような幽霊とかゾンビは見たことがない。
ただ、いるのがわかる。
見えないけど、昔から、いるのはわかっている。
たとえば、夜中にトイレに立つ。すると、項のあたりに鳥肌が走るようなことがあるけれど、そういう時は必ずいる。
いても気にする必要はない。ただ、ちょっと項のあたりが気持ち悪いだけ・・・。
もし嫌ならば、灯りをつけ、南無阿弥陀仏を唱えれば、大人しい霊であれば消えてくださる。
鏡は覗き込まない方がいい。夜の鏡は避けた方がいい。
本当です。
ともかく、霊を感じたら、そっとしておけば、だいたいはまもなく消える。
項のあたりがざわついている間はいると思っていい。
でも、こういう霊は全く気にする必要はない。
パリのアパルトマンでは、一週間に一度くらいの割合で遭遇するけど、このタイプの霊に危害を加えられたことはない。
いるよ、と教えてくれているのだ。いるなぁ、と思っておけばいい。
霊は仲良くなると様々なサジェスチョンを与えてくれる。
これはしてはいけない、とか、今はこれをするべきだとか、合図を貰える。
もっと言えば、導いてくれるのだ。
新しい物件で暮らしだす時はいつも、お世話になります、と必ず言うように心がけている。
映画でも、舞台でも、稽古や撮影に入る前に必ず神社などでお祓いをする。
こういうのをちゃんとやらないと事故がおきたり、映画そのものが中止になったりすることがある。
ぼくが暮らしだした田舎のアパルトマンには悪い霊はいない。
パリのアパルトマンにも霊がいるが、ぼくら父子には無害である。
田舎のアパルトマンに関しては、まだよく分からないけれど、とってもいい気が溢れている。
もしかしたら、ちょっとしたパワースポットかもしれない。
それほど、気がいいのだ。
夕陽が見える窓が半分、朝陽が見える窓が半分。
そして、たぶん、その両方が見えるだろう天窓が一つある。
そこに上る階段を今、ぼくは建設しようとしている。
(実際には、梯子を買った)
辺りでは一番小高い丘の上に立つ歴史的建造物の屋根の上に一つしかない天窓、19世紀から21世紀まで、詳しくは分からないけど、誰も開けようとしなかった、古い天窓がある。
そこから見える360度の景色は、ぼくの気持ちを穏やかにさせてくれる。
どこまでも続く海・・・
人間は見えないけれど、光りの中に、霊が存在する・・・。
梯子を上ると、カモメたちの世界があり、ぼくがハッチをあけると、彼らが退き、そこに遮るもののない宇宙が広がるという寸法である。
いつか、宇宙とぼくは繋がりたい。