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滞仏日記「大切な人が亡くなっても、それでも、世界は慌ただしく動いていく不思議」 Posted on 2021/11/30 辻 仁成 作家 パリ

地球カレッジ

某月某日、人が亡くなるのは、とくに身内が亡くなるのは相当にきついことだけど、それは、免れない、いずれ生きている者の宿命なのである。
死ぬということとは和解できるにしても、知り合いや、関係者や、家族や、親友や、仕事のパートナーがなくなると、悲しいのに、やらなければならないことが押し寄せてくる。
菅間さんにはしっかりされたお姉さんがいらした。なので、お姉さんご夫妻が菅間さんを送り出した。
葬儀一つにしても、遠方からやってきて、やるのは大変なことだったと思う。
でも、菅間さんがぼくの仕事のすべての中心的存在だったので、作家の仕事も、映画や音楽、デザインストーリーズも会計も法務も、ぜんぶ、彼女が切り盛りをしていたので、ぼくの仕事が一部、止まった状態になっている。
今現在、連絡がつかない、仕事途中の編集者さんもいる。仕方のないことだ。

滞仏日記「大切な人が亡くなっても、それでも、世界は慌ただしく動いていく不思議」



福岡にいる弟がすぐに神奈川の彼女の家に飛び、お姉さんと一緒に探さないとならない書類や仕事のあれやこれのために動いたのだけど、考えてもみれば、不意に妹が旅立ったのに、うちの事務所のことまで気をまわさせてしまったお姉さんには、あまりに申し訳ないことであった。
それにもかかわらず、まるで菅間さんのようにご対応いただき、・・・。
でも、事務所機能を止めることもできないから、弟の恒ちゃんは、葬儀の準備をするお姉さんのアドバイスなども仰ぎながら、菅間さんの仕事場の整理と諸々(パスワードとか貴重な書類など)の捜索をやった。
ぼくは飛んでいきたいけど、行けない。
でも、行ってもぼくなんか、泣いてるだけだろうから、パリでおとなしくしているしかないのである。
思えば、もう一年以上、日本に戻れていない。次、いつ帰れるかも、オミクロンのせいで、わからない。
なんか、このまま、帰れない気もしてきた、・・・ものすごい時代である。



今日、弟から通帳の写しが送られてきた。
通帳に鉛筆で書かれた菅間さんのメモなどを見ながら、こうやって、事務所を維持してきてもらったのだな、と思った。
菅間さんの家の倉庫にはぼくの創作物の入った段ボール箱、正確にはプラスティックケースらしいけど、が4、50箱くらい積んであったのだそうだ。
たぶん、その中には、・・・
初期の映画フィルムとか、初期の手書きの原稿とか、ソロ時代の音源とか、写真とか、が入っているに違いない。
今となっては、持っていてもしょうがないものばかりだが、そういうものが、どさっと詰まっているはずである。
それをどうするのか、悩んでいる。
他にも、手放した田舎の家の庭にそのまま放置されてあるコンテナに、ECHOES時代のギター十数本、昔描いていた絵とか、西武デパートでやった写真展の時の巨大な額入り写真とか、が保管されたままの状態になっている。
菅間さんと整理しに行かなきゃね、と話し合っていたけど、コロナのせいで、ずっと行けずじまいである。
長く生きていると創作物も半端なくて、この際だから、一気に処分してしまおうかな、と思っている。価値のないものばかりだ。

滞仏日記「大切な人が亡くなっても、それでも、世界は慌ただしく動いていく不思議」



最低限、事務所を切り盛りするための情報やデータは弟と菅間さんのお姉さんとで発見してもらえたのだけど、それでも、見つからないものもある。
ま、それはなんとかなるとして、これから、お姉さんはどうされるのだろう、と心配になった。
一番、大変なのは、お姉さんだろうな、と思う。
家族だから仕方がないけれど、落ち着くまで、心の整理がつくまで、まだしばらく、事務的な作業が続くのだろう・・・。
弟は東京に三泊し、銀行や区役所や法務局やあちこち飛び回り、最後に、お通夜に参列し、母さんが入院する済生会病院まで文字通り飛んで帰った。
母さんはおかげさまで、福岡の済生会病院のいつもの先生方のお力添えを頂いて、健康を取り戻すことが出来ていた。
86歳の母さんだが、娘のように思っていた菅間さんの死を、どんなふうに、理解しているのだろうか。



11月、最後の日、ぼくは弟と一日中、ラインで、今後のことを相談しあった。
事務所をどこに移転するのか、どうやって、維持させていくのか、菅間さんマターで進んでいたいくつかのプロジェクトがあるのだけど、ぼくは任せきっていたので、それがどういうことになっていたのかも、実は、わからない。
韓国のテレビドラマのことや、イタリアで出版される本のこととか、日本で来年出る予定のいくつかの本のその進行具合とか、・・・。でも、これも仕方がない・・・。
今日の朝、菅間さんのお姉さんから、長いお返事が戻ってきた。なぜか、お姉さんとのメールのやりとりは、菅間さんとのやり取りを思い出させてくれた。
最後の一文に、また、目元が湿った父ちゃんであった。
「妹が言っていたように
貴方様を支えサポートしてくれる方がきっと現れます。どうぞお元気でこれからもご活躍くださいますよう、遠くから願っております」

つづく。

※ この日記の転載はご遠慮ください。

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