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退屈日記「息子と二人、並んでキッチンに立つ週末。親から盗む生き方」 Posted on 2021/10/02 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、最近、仲良しな親子関係になってきた。
大げんかをしてから、なんか、お互い言いたいことを言い合ったからか、多分、息子も言いたかった積年の恨み(?)悩みかな、を吐き出せたので、気分が楽になったのだろう。
ぼくも気が付くと、楽になっていた。
そしたら、自然とキッチンに集まり、一緒にご飯を作ったりするようになった。
一緒に作らなくても、どっちかが作っているのを眺めている、という感じだ。
もう、そんなに長くはない2人暮らしも、終盤に差し掛かって、いい思い出が、思い出の味がどんどん、出来ている、という感じかもしれない。

退屈日記「息子と二人、並んでキッチンに立つ週末。親から盗む生き方」



ぼくは父親とキッチンに立ったことがない。
怖い父だったから、キャッチボールを教えてもらったことが一度あったけど、飛んでくる球があまりに早くて逃げ回っていたような記憶しかない。
うちの息子がぼくくらいの年齢になった時、いったい何を思い出すのだろう。
狭いキッチンに並んで立ち、玉ねぎの切り方を教えられたことだろうか? 
米の研ぎ方を教えられたことだろうか? 
パスタの茹で方を教えられた時のことだろうか? 
買ってきた食材が並ぶテーブルを見つめながら、今日は何にするの? と息子が言う。
ぼくは、料理名を伝えるだけじゃなく、その作り方などを超ザクっと教える。
「今日はグラタン・ド・フィノアにする」
「やった。作り方教えて」

「いいかい? 料理って教えたり教えられたりするもんじゃないんだよ。料理は見て、盗むものだ。パパの作り方を見て、なるほど、包丁はこうやって持つのか、とか、フライパンはこうやって回すのか、とか、見て、受け継ぐというのか、身体と心で覚えていけばいい。レシピなんかあるようでない。味見しながら、最初はパパの味に近づけ、それから自分の味にしていけばいいんだ。そうやって料理のレパートリーは増えていく。パパだって、誰にも教わってない。レストランで食べた味を思い出しながら、再現しているうちに、自分の味が生まれた。こういうことを言うと批判する人もいる。基本がなってない、とか・・・。でも、家庭料理だもん、関係ない。勉強じゃなくて、生きている時間の中で学ぶことの方が大事だ。もう、君はお米を研げるし、パスタも上手に茹でられるから、そこからは自分の世界をどんどん追求した方が早いよ」

退屈日記「息子と二人、並んでキッチンに立つ週末。親から盗む生き方」



大きな息子は、のそのそしているけど、だんだん、包丁の扱い方も、フライパンの回し方もさまになってきた。
ぼくは何も教えてない。
彼はミュージシャンだけど、ぼくは何も教えてない。
彼はウクレレをひくけれどぼくは何も教えてない。
彼はフランス語がネイティブだけど、もちろん、ぼくは何も教えてない。
見よう見まねで、自分のやり方を発見してきたのだ。
料理もきっとそうやって息子は息子の味を作っていくのに違いない。創作意欲だけはぼくに開けないほど、ある子だから、きっと家族に愛される味を確立できるだろう。
その味の底辺に、父ちゃんの影響はあるかもしれない。
ウクレレも、音楽も、人生も、その底辺で少しだけ、父ちゃんが関係をしている。それくらいがちょうどいい。
いい具合の人生の塩味だと思う。

退屈日記「息子と二人、並んでキッチンに立つ週末。親から盗む生き方」



今日はこれから、グラタン・ド・フィノアを作るけど、彼は見学したいのだそうだ。
もちろん、それがいい。
フレンチの基本中の基本だから、よーく盗んだ方がいい。
親から生き方を盗むのが子供の仕事なのだから・・・。

退屈日記「息子と二人、並んでキッチンに立つ週末。親から盗む生き方」



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