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滞仏日記「二階のあのド・ゴール将軍に似た矍鑠紳士が、遠くを想う日に」 Posted on 2021/09/23 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、田舎の館に来たのはいいけれど、いろいろと仕事に追いかけられ、のんびりできない。
今日は朝から、いくつかのZOOM会議があり、昼ごはんもちゃんと食べられなかった。
ZOOM会議をしている様子を別のカメラで、NHKの「ボンジュール、秋ごはん」用に、撮影するというダブルの仕事・・・。
何のために田舎に来たのだろう。
ぼくの仕事机の後ろには、レンガの柱があり、そのレンガとレンガの間の160年前のセメントの劣化が激しく、このままだと崩壊しそうなので、前回、セメントをこねて、生まれて初めて、本格的な日曜大工?を試み、削って、埋め直したのだけど、ご覧の通り、綺麗に(?)乾いていた。
その写真を下の階のカイザー髭さんにSMSで送ったら、電話がかかってきて、
「これで、あと100年は持つね」
と太鼓判を押された。
やれやれ、古い建物はメンテナンスが大変である。

滞仏日記「二階のあのド・ゴール将軍に似た矍鑠紳士が、遠くを想う日に」

※ 会議の様子を、別のカメラで撮影している。会議をしながら、ドキュメンタリーも撮影しているのだから、やれやれ、である。

滞仏日記「二階のあのド・ゴール将軍に似た矍鑠紳士が、遠くを想う日に」



「ところで、二階の人がいるようだけど、見かけたかい?」
と訊かれた。
二階の老紳士のことを、ぼくは「将軍」と、名付けた。
90代前半という高齢のおじい様なのだ。
「いや、まだ着いたばかりで、会ってないですが、どうしてですか?」
「実は、ずっといるんだよ。私でさえ、ここに15年暮らしているけど、数回しかお見かけたことがない」
そういえば、二階の通りに面した大きな窓が少しだけ、開いていた。
「それでなんとなく、一階のベルナデット(本名ではない、あだ名)に訊いたら、二階の老紳士は最近、奥さんを亡くされたようで、パリの家にいると辛くなるから、こっちに籠ってるんだとか・・・」
なるほど、そういうことか、と思った。
「矍鑠としてらっしゃるけど、でも、90歳を超えているんですよね? 買い物とかどうされてるんでしょうね?」
「それはきっとお手伝いさんが来てるとは思うし、掃除とか雑用をしている人はいるだろうよ」



「それがね、二階の人は、どうも、ちょっと認知症っぽいようで、ベルナデット曰く、時々、建物の前で誰かの帰りを待っているんだって」
「奥さんですかね」
「そうだろうね。私も何度か会ったことがあるが、素敵なマダムだった。知性があり、昔、映画業界で働いていたらしい」
電話を切った後、なんとなく、気になったので、下まで降りてみた。
二階の紳士の家の玄関前には、きっと夫婦で腰かけていたのだろう、赤い椅子が二脚置いてある。
そこの横に中庭に通じるドアがあるのだけど、普段は閉まっている。でも、今は開きっぱなしなのだ。
ここにぼくが来た時から、一度も、閉められた形跡がない。

滞仏日記「二階のあのド・ゴール将軍に似た矍鑠紳士が、遠くを想う日に」



空気を入れ替えるために、開けたのだけど、忘れてしまったのかもしれない。
こんな田舎なので、泥棒が来ることはないだろうが、不用心だ。
うちは最上階の屋根裏で、狭い物件だから、狙われることもないが、・・・。
将軍の家は天井まで5メートル以上の高さがある・・・。
そういえば、ド・ゴール将軍の家の横から中庭に出ることが出来る。
3メートルほどの塀がこの建物を囲んでいるけど、こんなもの飛び越えようと思えば、泥棒たちにとっては朝飯前だ。
心配になり、ドアを閉めようとしていると、その音で気が付いたのか、ドアが開き、中から将軍が顔を出した。

滞仏日記「二階のあのド・ゴール将軍に似た矍鑠紳士が、遠くを想う日に」



「そこにいたのか?」
確かに、将軍はそう言った。
「あの、ここ開けていると、不用心ですから、ちょっと閉めておきますね」
「かまわない。階段が黴臭くて、ならない。管理組合には連絡したんだが、いっこうに改善されない。それよりも、私のステッキが見当たらない。探してくれるか?」
え? ステッキ? 
将軍は先に家の中へと入ってしまった。ドアは開いたままである。
中を覗いた。天井から豪華なシャンデリアがぶら下がっていた。
大きな室内を将軍は矍鑠と歩きまわっている。
「玄関に置いといたんだが、見当たらない。まったく」
本棚の角に、ステッキらしきものがあったので、
「それ、違いますか?」
と指さして、言った。

滞仏日記「二階のあのド・ゴール将軍に似た矍鑠紳士が、遠くを想う日に」



将軍が立ち止まり、ゆっくりと踵を返した。
そして、ぼくが指さす本棚の角を見つめ、ああ、と言った。
「こんなところに」
ぼくがそれを掴んで、差し出すと、受け取った老紳士が、夕飯はどうする、と告げた。
その時、やっとぼくは理解したのだ。
彼はぼくを誰かと間違えている。その目の焦点が僅かにずれている。
「あ、違いますよ」
とぼくは言いかけたが、口を噤んだ。
その時、誰かが階段を上って来た。まもなく、ドアの方から、
「ボンジュール」
と声が響いた。
振り返ると、太ったマダムが立っていた。なんとなく、将軍のお世話をしている人だな、と思ったので、
「ボンジュール」
と挨拶を返した。
その人は、ここにぼくが、つまり、日本人のロン毛のムッシュが立っていることに驚いたようだった。



「あの、こちらのムッシュが、ステッキが見当たらない、というので、一緒に探していました。ぼくは、最上階に越してきた、日本人のTSUJIといいます」
「はじめまして。ありがとうございます」
でも、ぼくはちょっと安心をした。何か買ってきたのか、大きな紙袋から食材が顔を出していた。これから、夕飯を作り、ベッドメイキングなどをするのだろう。
「じゃあ、お邪魔しました」
ぼくは将軍にお辞儀をして、そこを去ろうとした。
老紳士は、ぼくから目を離さなかった。ぼくは小柄で髪が長いから、亡くなった奥さんと間違えられたのかな? 
ここはお手伝いさんに任せて、出たほうがよさそうだ。
「おい」
すると、紳士が言った。
ぼくは立ち止まり、振り返った。将軍はステッキを持ち上げ、
「ありがとう。一緒に探してくれて」
と笑顔で言った。
ああ、意識が繋がったんだ。
こうやって、しょっちゅう、違う世界とこことを行ったり来たりしているのだろう、と想像した。
「大丈夫ですよ、いつでも、必要なことがあったら、呼んでください。ぼくは最上階に住んでいます」
気が付く時は、手を差し伸べなきゃ、と思った。
あと、何年、彼はここで一人で暮らしていくのだろう、一人で暮らしていけるのだろう、と思った。



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