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滞仏日記「朝のカフェの定位置をぼくと奪い合うムッシュ」 Posted on 2021/08/31 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、朝、カフェに行き、コーヒーを飲むのがぼくにとってはもっとも大事なことなのだ。
ぼくはモノを考えるのが仕事なので、カフェのいつもの席で、小一時間寛ぐのが日課であり、仕事でもあるのだ。
ところがである。
ぼくにとって、いつもの席だが、別の人にとってもいつもの席だったりするので、これが厄介である。
席の奪い合い、というか、早いもの勝ちになる。
この写真のおじさんは、ぼくといつもの席を奪い合う、いわば「敵」である。
ぼくは自分の家の近くに、2,3軒、行きつけがあるのだけど、どうも、このムッシュとは気が合うのか、いつも座る席が一緒なのだ。困ったものである。

滞仏日記「朝のカフェの定位置をぼくと奪い合うムッシュ」



で、今日も朝、いつもの席に座ってカフェオレを頂こうと思って出かけると、すでに、その人が座って、本を読んでいた。
彼の定位置のようだ。
パソコンを持ってきて仕事をしていたりするので、彼は間違いなく、そこが気に入っている。
で、仕方ないからぼくは別の席に座ってコーヒーを飲むのだけど、これが同じコーヒーなのに、美味しくない。
いつもの席で、いつものギャルソンとああだこうだ油を売りながら飲んでこその一日のはじまりなのである。

滞仏日記「朝のカフェの定位置をぼくと奪い合うムッシュ」



昼少し前に、野本から連絡があり、「ひとなり、ごはんしようか」というので、行きつけのレストランに予約をいれ、息子にはキムチ高菜炒飯を作って、出かけた。
ところがである。
そこはぼくの行きつけのレストランなのだけど、行くと、ガラガラなのに、なぜか、いつもの席が見慣れない客にとられていた。
予約を入れた段階で、ムッシュ・ツジが来るのがわかるのだから、いつもの席をとっておいてもいいんじゃないの? 笑。
なじみのギャルソンが、気が付き、
「あ、あの席、とられちゃいましたね」と言われて、気分が下がった父ちゃん。
仕方がないから反対側の角席に座ったのだけど落ち着かない。
野本がやってきて、ワインを頼んだのだけど、話が弾まなかった。
いつもの、意味不明の野本節も炸裂しなかった。
スキップしながら、家路につく野本を見送る父ちゃん。

滞仏日記「朝のカフェの定位置をぼくと奪い合うムッシュ」



で、早々に分かれて、ぼくは午後一で、朝のカフェに向かった。
いつもの席で、改めてコーヒーを飲んでやろうと思ったからだ。
ところがである。
あれから、間違いなく、6時間は経っている、いや、7時間は経っているというのに、いつもの席に、あの朝のおやじ(ムッシュ)が座って、新聞を読んでいた。
マジかよ、と溜め息がこぼれた父ちゃん。
斜め後ろから、そいつの顔をじっと睨みつけてやった。
するとなじみのギャルソンがやってきて、どうぞ、と隣の席を指さすのである。
ここに座れってか。ううう・・・。屈辱的である。
ここまで来て、別の店に行ってコーヒーを飲むのも面倒くさいし、このムッシュがいなくなれば、移ればいいか、と思い直し、ぼくはすすめられた椅子に腰を下ろしたのである。落ち着かない。

滞仏日記「朝のカフェの定位置をぼくと奪い合うムッシュ」



「なんにされますか?」
とギャルソンが言うので、
「いつもの」
と言ってやった。
「いつもの? エスプレッソですか? ビール? 白ワイン?」
「ノワゼットだよ」
「ああ」
ノワゼットというのはエスプレッソに数滴ミルクを垂らしたもののこと。
ノワゼットは仏語でヘーゼルナッツのことだけど、普通のエスプレッソに数滴ミルクを垂らしたものもノワゼットという。
ぼくはこのしゃれおつなネーミングが好き。笑。
で、ノワゼットを飲みながら、じろじろ隣のムッシュを見ていたら、視線が気になったのか、おやじがぼくを急に振り返った。
そして、睨まれてしまった。
困った。ぼくの席なのに・・・



「ボンジュール。どうかされましたか?」とおやじ。
「え? ボンジュール。いやいや、別に」とぼく。
「ムッシュ、よく会いますね。この辺ですか?」
「ええ。あなた、朝もここで仕事されていたでしょ?」
「え? ああ、そうそう。この席が好きで」
ぐやじー。ぼくもなのに・・・。
「そこ、ぼくも好きなんですよ」
「あら、今日はぼくがとっちゃいましたね」
ムッシュが笑ったので、ぼくも笑った。仕方ない。
「実は、あなたがよくこの席に座ってるのを何度か見かけたことがあるんですよ」
「あ、そうですか?」とぼく。
「ええ。で、通りの反対から、苦々しく見てました。そこ俺の席なのにってね」
思わず親近感がわいた父ちゃん。
「一緒ですね」
「一緒ですか?」
ぼくらは笑いあった。



ぼくらは、どこどこのカフェだとどこの席が好きだ、とか、席談義をし合った。
どこどこのカフェのコーヒーがうまいだとか、ビールならあそこ、ワインならあの店、ランチならそこのカフェが安いし美味いだとか、・・・。
だいたい好みが一緒で、話が弾んでしまった午後のひと時であった。
「一つ、こうなったら決めごとをしましょう」
ムッシュが提案をしてきた。
「どっちかが先にここに座っていても、嫌な気分にならない、というルールです」
「あ、それいいなぁ」
「つまり、ぼくらはもう知り合いになったのだから、こんな小さなことで席を奪われたとか、今日はついてない、とか思うのはつまらないじゃないです?」
「賛成です」
「世界平和って、こういうところからはじまるんですよ」
「おお、素晴らしい。いいこと言いますね」
「あなたが話の分かる人だからですよ」
ぼくはすっかり気分がよくなっていた。
実に、いい日である。
この人があまりに心が広いので、見習わなきゃと思った、父ちゃんでもあった。
今日はこのことを日記に書こう、と思った初秋のパリの夕刻であった。

つづく。

滞仏日記「朝のカフェの定位置をぼくと奪い合うムッシュ」



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