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リサイクル日記「一人で生きる飯」 Posted on 2022/12/23 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、たまに家族のために食事を作らないでもいい日とかがある時、主婦(主夫)の人は自分のためだけに手の込んだものは作らない。
で、いわゆる「手抜き」料理になるのだけど、でも、それは「一人で生きる飯」ではなく、「たまには楽したい飯」だとぼくは思うのである。
ぼくも息子がいない日は、「たまには楽したい飯」で済ませることが多い。インスタントラーメンや冷凍食品とか、あるいはデリバリーとかで・・・
しかし、「一人で生きる飯」というのは、そうじゃなくて、夫(妻)と離別(死別)、あるいは距離を持って生活(別居とか)するようになり、子供がいる人は、その子たちが巣立って、もう家族のために食事を作る必要もなくなり、毎日、自分が自分のために何かを作らないとならなくなった時に作るごはんのことである。
そのことをぼくは「一人で生きる飯」と呼んでいる。

リサイクル日記「一人で生きる飯」



まさに、ぼくは今、そこに向かっているのだ。
すくなくとも、来年の今頃は完全に、「一人で生きる飯」という状況になっているであろう。
その時が訪れ、不意にそういう生活に身を置かないとならなくなるより、今からその心の準備をしていく方がいいだろうと考え、こうやって時々息子と離れてその準備にいそしんでいるというのが、今の状況かもしれない。
これまでは息子を育てることにある種の使命感というか、生き甲斐というか、心のよりどころを持っていた。
だから、お弁当を毎日作ることも、三度三度ご飯を作ることも、苦痛ではなかった。
けれど、一人になり、自分のために料理をしないとならなくなると、張り合いは失せ、楽しくもないし、美味しいものを追求しようとする意味合いも消え去っている。
そんな一生は面白いだろうか? 

リサイクル日記「一人で生きる飯」



想像しただけで、絶望感しか湧き上がってこない。
やはり、料理というのは愛する者や、大切な人のために作るからこそ、美味しいと思う、愛情表現なのである。
自分のために、そのエネルギーを傾けるのは本当に難しい。
けれども、ぼくのように、家族がいなくなりつつある者にとって、これから先の方が長く、大切なので、将来のことはわからないけど、さしあたって一人で生きていく間は、自分を鼓舞出来るような「一人で生きる飯」が重要ということになる。
美味しいと思えるかどうか、で人生の醍醐味も違ってくるからだ。
ぼくは、この「一人で生きる飯」をこれからしばらくの間、追求していきたいと思って、今、ここにそのことを高らかに宣言しているのだ。
一人になってからの食事こそ、いや、その食事くらい、人生において大事なものはないのだ、と言いたい。

リサイクル日記「一人で生きる飯」



たとえば、ぼくは握り飯が好きなので、食欲のない時には握り飯にする。そうするとちゃんと食べることが出来る。
残ったら、ラップして、テーブルに置いておけば、だいたい、翌日の朝も同じ美味さが保証されている。
一人の時はご飯を多めに炊き、それを一人用の小分け冷凍ケースに詰め、3,4日はそれでしのいでいる。
それでも、白飯があるとないじゃ、意味が違ってくる。好きな時に食べればいいので、冷凍ご飯は便利である。
一方、パスタは確かに便利だ。若い頃、ぼくは100gくらい普通に食べていたが、今は60gで十分なので、測って60gだけ茹でて食べるようにしている。
麺よりも、具に重きを置くようになるのも「一人で生きる飯」ならではである。
蕎麦もうどんも最近は60gで統一している・・・。

リサイクル日記「一人で生きる飯」



たとえば、昨日は豪華に一日を締めくくりたかったので、味噌漬けした豚を焼き、蓮根のきんぴらを作り、おにぎりにして食べた。残ったおにぎりときんぴらは今朝の朝食になり、残った豚は今夜のラーメンの具となった。
あえて、ちょっと多めに作り、翌日にそれを応用する。これは実に経済的である。

リサイクル日記「一人で生きる飯」

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リサイクル日記「一人で生きる飯」

リサイクル日記「一人で生きる飯」



「一人で生きる飯」は、けっしてネガティブなものではなく、一人で生きる人生を謳歌するようなものでなくてはならない。
だから、そこには「手抜き」にはない、「美味しい」エネルギーと「ポジティブな生き様」が内包されていないとならないのである。
量は少ないけれど、食べ終わるたびの充実感というのは大切だ。
「さて、今日は何を食ってやろう」
と朝からずっと考え続けることが生きる糧になる。
そして、美味しいご飯を食べきった後の達成感が、ぼくの人生を彩る。
手を合わせ、ご馳走様でした、と天に感謝をしながら、一日一日をまっとうしていく。
生物としての根源的な喜びがそこにはあるのだ。
これだけでも十分、人生に意味が帯びてくる。
「一人で生きる飯」
そのように、ぼくはこの食生活のことを呼んでいる。
一人で生まれてきた。死ぬ時も人間は一人なのである。
この自由な時間を、自分のために思う存分に使って、大往生したいものである。



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