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滞仏日記「まだ会ったことのなかった2階の矍鑠紳士との運命の出会い」 Posted on 2021/08/22 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ぼくの田舎のアパルトマンは5階建てで、最上階がぼく、4階がカイザー髭とハウルの魔女さん似のご夫婦、3階がフィリップ殿下とエリザベス女王似のご夫婦、そして1階がメゾネットになっていて、フランケンとベルナデッド似のご夫婦というのがこれまでの主な登場人物であったが(離れに、フランケンの息子のプルースト君がいたっけ、笑)、ただ、2階の人とはまだ会ったことがなかった。
どの世帯主もぼくよりも年配の人たちで、たぶん、70代じゃないかと思う。
2階の人は滅多にここには来ない、とカイザー髭さんが言っていた。
「ぼくらよりかなり高齢だから、ここには滅多に来ないよ。年に一度か二度しか会わない。雰囲気のある不思議な人だよ」
と教えられていた。
「何歳くらいの方ですか?」
「90代の前半かな。91,とか92?」
「え? そんなに?」

滞仏日記「まだ会ったことのなかった2階の矍鑠紳士との運命の出会い」



で、この時期、ぼくのアパルトマンが入った建物には珍しくカイザー髭さんご夫婦も、フィリップ殿下ご夫婦も、フランケンご夫婦もいなかった。
車を坂の途中に止めた時、しかし、二階の窓が開いているのを目撃しまう・・・。
いる!!!
ちなみに、フランスの古い家は2階と3階が一番天井が高い。車を停車した坂の途中からだとどの階が一番天井が高いか一目瞭然なのである。
2階の人の家はぼくの家の倍の高さがあった。うちが2M80くらいだから、5Mを優に超えている・・・。
窓の大きさだけでもうちの6倍はある。
で、今日、ジャージに着替えてランニングに出ようとしていると、建物のエントランスの入り口に立つ、もの凄い紳士に出会ってしまった。
その人は散歩から戻ってきたのだろうか、しかし、その身なりに、まず、驚いてしまう。

滞仏日記「まだ会ったことのなかった2階の矍鑠紳士との運命の出会い」



きちっとした夏ものの麻のスーツ、それもブランドものなのか、仕立てがいい。
麻のシャツジャケットを寄れずに羽織るその着こなしにまずビビった。
それよりも目を引いたのが、先端が金色のステッキとボルドー色のベレー帽だった。ほっそりとした顔を覆うようなベレーのかぶり方、半端ない。
ちょっとドゴール将軍に似ていたので、すぐに「将軍」とあだ名をつけた。
というのも、90代だというのに、背筋が伸びているし、ぼくよりも頭一つ背が高いのである。
顔はたしかに90代の男性のそれだが、口はしっかりと結んでおり、息が上がっていない。
その態度や所作は矍鑠としている。
カイザー髭や、フィリップ殿下が若造に見えてしまうほどの貫禄なのだ。



ぼくは勢いよく、さぁ、走るぞ、と建物を飛び出したところだったが、一瞬で後悔した。
夏用ランニングの半ズボン、上はよれよれのTシャツ。
髪の毛が乱れまくっていて、それをECHOES時代のバンダナで固定しているのだけど、頭の後ろで、長い毛がくるんと跳ねて、ちょっと、寝起きのマダムのような感じになっている。
でも、誰にも会わないから、かまうものか、とそのまま家から飛び出したのだった。

滞仏日記「まだ会ったことのなかった2階の矍鑠紳士との運命の出会い」

※ 上がバンダナ
下がそのウエスト・ポーチ。ランニング時の、必需品である。

それはまだいいとして、一番、恥ずかしかったのは、家の鍵とか携帯をいれたウエスト・ポーチである。運動着屋のセールで買った、5ユーロのポーチ!
携帯、財布、カギ、運転免許証まで入って、食べ過ぎたワニみたいになったのを腹に巻いていた。
伸びる素材なので入るのだけど、重みのせいで、全体がちょっと垂れ下がっているのが難点・・・。
ドゴール将軍と比べると、歴然とした差がある。
「ムッシュ、はじめまして・・・。あの、5階に越してきた、ツジといいます。日本人の作家であり、ミュージシャンです」
ミュージシャンと言ったのはよくギターを練習しているので、そこをつつかれたときの予防策であった。←細かい。
将軍は、動じず、ぼくをじっと見ている。そして、上品な口調で、こう告げた。
「すぐに、わかったよ。そうだろうな、と思った」
ベレー帽はトップの部分を後ろにずらし、重心を下げて、斜めにかぶっている。髪の毛がちゃんと中に織り込まれている上に、片方の耳も半分だけベレー帽が上品に塞いでいる細やかさ、くゥー、そつがない。
このかぶり方は本物だ。
ぼくがベレー帽をかぶると、なぜか、大黒天になってしまう。これで、打ち出の小槌と大きな袋を背負っていたら、完璧だ。何が完璧なんだ!!!!
ぼくはせいぜい、ハンチングどまりの若造なのである。
なんだ、この差・・・みじめだぁ・・・。



ぼくは今すぐ、逃げ出したかったが、ムッシュが行く手を塞いでいたので、回避できなかった。
「昨日の夜に、ギター弾いて、ジョー・ダッサンのレ・シャンゼリゼを歌っていたのはあなたか?」
「あ、はい。わたくしであります。うるさかったですか?」
敬礼をしそうになった。だって、2メートルくらいあるボルドーカラーのベレー帽かぶった紳士で、ステッキ、なんだから! 素敵!
ぼくは秋に計画しているパリ市内バスツアー&ライブの中で、シャンゼリゼ大通りでこの曲を歌う予定になっている。
昨夜、ギターアンプで大きな音をかき鳴らし、猛練習をしていたのである。オーシャンゼリゼ、たらったらったぁ~♪
「あの曲は、思い出の歌なんだよ」
「あ、はい。どのような・・・」
「死に別れた妻が好きでしてね。1969年にあの曲がヒットをして、当時私は40歳で、まだ、かなり若かったから、二人で口ずさみながら、よくデートをしたものです」
1969年で、40才って、ステッキ、と思った。



すると、ご老人、空を見上げて、オーシャンゼリゼ、と小さく歌いだしたのである。ひえーーーー。貫禄あるーーー。この歌い方、すごすぎる。
不意に、ご隠居が両手をオペラ歌手みたいに胸の高さにおいて、少し、肩を斜めに傾けて、上品な小さな低い太い声で、ワンフレーズ、歌ったものだから、くらくらッ。敵わない。
「ありがとう。昨夜は、窓をあけて、星空を見上げながら亡き妻のことを思っていたから、上から星が降り注ぐように聞こえてきた貴殿の歌声に、涙が出そうになったのだよ」
「は、恐縮です。私でよければいつでも、歌いますので、おっしゃってください」
「ありがとう。気になさらず、大きな声で練習をしてください。かすれ声が、素敵ですね」
ぼくは思わず敬礼をしそうになった。
すると、ドゴール将軍は背筋を伸ばし、小さく、目じりのあたりに手を添えて、つまり、本当に、軽い敬礼をして、そこを去っていったのである。
やばい、父ちゃん、大物に出会ってしまった。

滞仏日記「まだ会ったことのなかった2階の矍鑠紳士との運命の出会い」



その夜、ぼくはギターアンプのボリュームをあげて、空高く上る満月を見上げながら、歌うことになる。憚ることなく、これで歌えると分かったが、緊張をした。
亡き奥さんとの思い出の歌を冒とくしないように、開いた窓から美しい満月を見上げながら、最上級に、歌うのだった。
オーシャンゼリゼ~、たらったらったぁ・・・・

滞仏日記「まだ会ったことのなかった2階の矍鑠紳士との運命の出会い」



おまけ。
オーシャンゼリゼ(作詞、ピエール・ドラノエ、曲、マイケル・ウイルシュ。適当訳・父ちゃん)

見ず知らずの人にさえ心を許したい気持ちでね、大通りを闊歩していた
誰にでも「ボンジュール」って言いたかったんだよ
声をかけまくったその人々の中に君がいて、意味のないことを話した
君と仲良くなるのに、そんな風にただ話すだけで十分だった
シャンゼリぜ大通りには、シャンゼリゼ大通りには、
晴れていようと、雨が降っていても、昼だろうと、夜だろうと、
欲しいものがなんでもあるのさ シャンゼリゼ大通りには・・・



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