JINSEI STORIES
滞仏日記「ママとは何か? それを探し求める少年とうちの息子が重なる歳月」 Posted on 2021/08/17 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、お母さんを知らない少年がいる。名前は「アル」。
何歳なんだろう。物心がついて少しが過ぎた、でも少年だけど、幼児からちょっと過ぎた程度の、まだ子供、という感じの子。
アルの父親の名前はシド、彼はピアニストなのだ。
二人はずっと旅を続けている。父子旅を続けている。
ぼくと息子もずっと父子旅を続けていたけど、アルとシドも秋になると南の方の街を転々とする。
シドはピアノバーとか、ジャズバーとかを渡り歩いて生活費を稼いでいる。
その間、アルは一人でお留守番をしている。
まだ小学校に入れる年齢じゃないけど、でも、大概のことは自分でなんでも出来る。
うちの子なんかより、ずっと自立した、というか、お母さんが最初からいなかったから、そうせざるをえなかったのだ。
お母さんがいない理由はおいといて、アルは、「ママ」というのがどういう存在なのか知らない。
時々、「ママー」という子供たちの甘えた声にハっとする。
きっと、それはうちの息子も一緒で、ぼくと二人暮らしになった頃、小さな子たちが「ママー」と甘える声を発すると、彼は氷りつき、冷たい目で世界を見つめていた。
アルはある時、ママとは何か、を知りたいと思うようになる。
幸福なことに、うちの子にはママの記憶が残っている。
いい思い出もきっといっぱい残っている。
でも、アルには思い出がない。
アルは自分の母親のことを知らないのだ。
その子の話しを聞いたのは、今から30年も前のことで、雪の降る街のピアノバーでのことだった。
とても上手なピアニストがいて、演奏が終わった後、ぼくは近づき、声をかけた。
あまりにピアノが素晴らしかったから、仲良くなり、窓外に積もる雪景色を見ながら、ホットワインをご馳走し、そう、すると、彼が子供時代の空白の気持ちについて語りだしたのだ。
その時、ぼくはまだ若かったので、大人になったアルが話したことを、たぶん、ちゃんと理解することが出来なかった。
でも、ぼくがシングルファザーになり、幼い息子と二人で暮らすようになると、息子とアルがもの凄くダブってしょうがなくなる・・・。
確かに、その時、大人になったアルはぼくにこう言った。
「そうか、君は本気で作家を目指してるんだね。じゃあ、この物語をぜひ、本にしてほしい。そして、いいかい、いつか、君の息子さんにその話しを読み聞かせてあげてほしい」
30年以上も前のことだから、ぼくがどういう思いでその物語を書いたのか、ちょっと思い出せない。
でも、大人になったアルがぼくに告げた、君の息子さん、という言葉が今も鮮明に心に残っている。
そして、それが予言だったかどうか、ちっともわからないのだけど、ぼくは今、息子と二人で暮らしているし、息子はきっと幼い頃、不在のママを心の中で探していた。
だから、ぼくはそういうことが自分の身に起こるだなんて思うこともなく、30年前、場末のピアノバーで知り合った一人のピアニストの話しを聞き、そこから物語を空想し、出版してしまったのだ。
最近、その本を読み返して、ぼくは衝撃を覚え、号泣した。
涙が枯れるくらいに、泣いた。
その小説は絶版になっていて、本屋で買うことが出来ないことを最近知った。
でも、その作品の中で、少年のアルは今もその当時のまま生きていたのだ。
それは、それは、ぼくの息子の幼い時の姿そのものであった。実際にぼくが自分の目で見た子供の姿だった。
ぼくはそれをこの世界から消し去ってはいけない、と思って、昔の原稿を引っ張りだし、時間を見つけては細かくリライトし続けてきた。
この物語は30年も前に、場末のピアノバーで知り合った名もなきピアニストとのやり取りの中からヒントを得ているのだけど、その一週間後、ぼくがもう一度彼に会いたいと思ってそのバーを訪ねてみると、そんな人間はいない、と店の人に言われてしまう。
そんなはずはない。その人はあのピアノを上手に弾いていたんだ、とぼくが言い張ると、店の人が苦笑し、あの壊れたピアノをですか、と言った。
ぼくは驚き、ピアノに駆け寄り、蓋をあけた。すると、いくつかの鍵盤が存在しない。
じゃあ、あの人は誰だったのか・・・。
時々、息子が自分の部屋でピアノを弾いている。
上手なので、覗きに行って、びっくりしたことがあった。
壁際のピアノに向かう息子の背中は、あの日の、大人になったアルの背中、そのものだったからだ。
ぼくはまた泣いた。
ぼくにとって二冊目になる電子書籍、「ミラクル」が昨日、電子の世界に船出した。
「出版する」と書かれたボタンを押したのは、ぼくだった。大人になっても、子供の心を失っていない世界中の人たちに届いてほしい、と一からすべて手を入れた新装版である。
その作品はぼくにとって、自分たちの今を語る奇跡の一冊でもある。
ママとは何か、パパとは何か、息子とは、人間とは・・・。
この物語は、優しい奇跡に包まれて、終わる。
30年前のぼくが書いた物語を、今のぼくが、アルとシドとぼくとぼくの息子を繋ぎ、時を超えて、ここに蘇った。
優しい奇跡を読者の人の心に灯したい。
「ミラクル」よければ、どうぞ⬇️
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