JINSEI STORIES
滞仏日記「毎日をこなすことの中にある偶然と必然について」 Posted on 2021/08/05 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、起きてから、ずっと天井を見ながら過ごした。誰にも頼りたくないので、携帯は消した。
でも、昼ごはんは作った。
作ろうとか思ってないのに、時間になるとキッチンに立っている。こんな気分でも、毎日というのはちゃんとやってくる。その点については謙虚に素晴らしい、と思うべきだろう。そして、ぼくは、また、毎日をこなす。
ちょっと気分を変えなきゃと思い、夕方、外に出ることにした。
足がふらふらする。ずっと寝ていたのだけど、少し運動しないと本当にお爺ちゃんになっちゃうな、と苦笑しながら、建物を出た。
夏休みだからか、クリスティーヌの本屋もエルベの酒屋もパン屋もクリーニング屋も休みだった。
近くのホテルが売りに出ていた。その隣にある一つ星のレストランもずっと閉まったままだ。
コロナのせいで世界の一部、いや、多くの部分が変わってしまった。
あれもこれも、全部、コロナのせいだ、とぼくは呟きながら歩いていた。
気が付くと、教会の前の公園のベンチに座って空を見上げていた。
天井とは違う。教会があって、その向こうに空があった。晴れてはいないけど、青空混じりの白い雲が流れている。
ぼくはそこにたぶん、二時間くらい座っていたのじゃないか、と思う。
いろいろな人が、何かの理由で公園にやってきて、ベンチに座ってぼくと同じように空を見上げたり、水を飲んだり、トイレに入ったり、立ち話をしたり、子供たちが走り回ったりした。
ぼくはこんなに長くベンチに座って、空とか教会を眺めたことがなかった。
振り返ると、ぼくの後ろに母子像があった。
そんなものがあるとは思ってなかったので、思わず、苦笑してしまう。
いろいろなことを思い出したけど、いろいろなことを忘れようと思った。
ぼくひとりで解決できないことが多すぎて、その一つ一つに立ち向かっていく元気はない。今はただ、目の前にあることをこなす。
毎日をこなすことに精力を費やしたい。
人間には様々な苦悩がある。
多分、それは全ての人に、人の数だけ苦悩というものがある。
ぼくは自分が抱える苦悩を塊のままにしておくのはよくない、と思った。
その塊を少しずつほぐして、選別し、冷静に一つ一つの答えを見つけていくのがいいだろう、と思った。
そして、解決できそうにない問題は、とりあえず、無視する。もっと言えば、飛ばす。ゴミ箱に捨ててもいい。
そもそもぼくは神ではないので、小さな人間だから、解決できない問題の方が多いのだ、と教会を見上げながら、自分に言い聞かせた。
考えてもみよう。なんで、ぼくは今、パリにいて高校三年生の息子と暮らしているのだろう。
これらは偶然であり、必然なのだ。
そして、人類はみんな、この偶然と必然で動いている。
ここにいるのは必然であり、偶然でもある。そして、小さな人間よ、君はこの運命を自ら選択してきた。その通り。命を運ぶと書いて運命というのだから、ぼくの人生に、偶然が重なったのも事実だが、それがいつしか必然になったということだ。
だから、どうして、とか、なんで、なんて考えていったい何になる。
経験にこそ意味がある。
たぶん、ある時、ぼくは人生を振り返るだろう。
そして、やっぱり苦笑しながら、それにしてもこんな人生をよく生きたじゃないか、と思うに違いない。
運命のなせる業なのである。
ぼくはベンチから、立ち上がった。
少し外の空気を吸ったから、さっきよりは足元がしっかりしている。いい感じだ。
スーパーで夕飯の材料を買い、家に戻った。
昼ごはんは手つかずのまま、テーブルにおいてあった。それはぼくが温めなして、食べることにしよう。
キッチンにいき、買った材料で、息子の分の暖かいご飯を作った。皿に盛り、食堂に置いた。
「ごはん、出来たよ」
と言いに行った。
「食べる」
と息子が太い声で言った。