JINSEI STORIES
滞仏日記「もしも、その子を幽霊と呼ぶのであれば、人間とはいったい何だろう」 Posted on 2021/07/29 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、昨日の夜のことだ。
夕飯が終わり、片付けをして、寝る準備をしていた。
窓が教会側にある、誰かがぼくを見ているな、と思って振り返ると、月だった。
数日前に海で綺麗な満月を見たので、欠けていくところのようだった。
でも、いつになく、怪しい月なので、胸騒ぎがした。
何か、がおきなければいいのだけど、・・・
息子は自分の部屋(ぼくの仕事場なんだけど、一応、彼の滞在中は子供部屋と呼んでいる)の布団の上で音楽を聴きながら寝ている。
時計を見ると深夜の0時という時間だったが、ゴミが少し匂うので、捨てに出ることにした。
田舎の家なので、階段に電球はついてない。
うちは屋根裏部屋だから、広い階段や狭い階段を下りないとならない。
カイザー髭の家の前の踊り場の窓から月光が差し込んでいて、階段が静かに青く光っていた。
下へ行くにしたがって、どんどん、暗い。
足を踏み外さないように、ゆっくりと階段を下りていくと、誰かが上ってくるのが見えた。
若い女性だ。ぼくはゴミ袋を持っているので、それを後ろに回し、踊り場の端によけ、彼女に譲った。
青い月の光りが女性の顔を縁取った。綺麗な、でも、つんとした顔だった。
「ボンソワール」
というと、小さな声で、ボンソワール、と言った。
で、数段下りて、はた、と気が付いた。
そこから上の階というとカイザー髭ご夫婦の家と、うちのアパルトマンしかない。
うちのゲストじゃないので、カイザー髭さんのもしかしたら、お孫さん? お子さんにしては若いから、そう思った。
で、数段下りたのだけど、確かめるというか、なんとなく、本当になんとなく気になったので、下りかけて立ち止まり、階段の上の方を振り仰いだ。
少女は見えなかったけど、高い天井の、教会のように高い天井なのだが、その上にある窓の一角から月がこちらを見ていた。
家の窓から見えた月と同じなのに、ちょっと悲しそうな顔をされていた。
そして、音がしなくなった。そもそも、その子が階段を上がってくる時、音がしていたか、思い出せない。
160年以上前の建物なので、階段も同じ年月の古さである。
それを登ると、だれであろうと、ぎー、ぎーと床が鳴るのだけど、音は一切しなかった。
しかも、呼び鈴の音もない。ドアの閉まる音もない。
気になったので、戻ってみることにした。
ゴミ袋が邪魔なので、踊り場に一旦置いて、数段駆け上がってみたが、誰もいなかった。
考えられるのは、ハウルの魔女さんかカイザー髭がドアを半分あけて、少女をすぐに中に招き入れた、としか、思えなかった。
ぼくは建物の裏手にある、教会脇の駐車場にあるゴミ置き場にゴミ袋を捨て、一度,自分のアパルトマンの入った建物を振り返った。
そのずっと上方に、欠けた奇妙な月が見えた。
一番上のぼくのアパルトマンだけは、電気が点いているが、カイザー髭の家も、その下のフィリップ殿下の家も、その下も全部灯りが消えている。
0時を過ぎているので、みんな寝ていて当然だった。
じゃあ、あの子は・・・。
ぼくは自分の家に戻ることになる。
帰りの階段も気を付けて登ったのだけど、その少女と遭遇することはなかった。
アパルトマンに戻り、息子に、
「なんか、女の子と階段ですれ違ったんだけど」
と言った。
「女の子?」
息子がこちらを振り返り、ヘッドフォンを外しながら、胡坐をかいて、座り直した。
「女の子って言っても、15才とか、もしくは君くらいかな」
「こんな時間に?」
「だよね? 誰も、ここに来てないよな」
「なんで、そんな怖いこと言うの?」
結局、ぼくらは灯りを点けたまま、なんとなく、寝ることにした。
で、今日、寝付けなくて、というのは、なんかうなされていたみたいで、睡眠と覚醒のあいだを彷徨う感じの夢見心地であった。
夢を見たのだろうけど、覚えてない、でも、誰かと長い話をしていてたような感じでもあった。
起きたら、とにかく、喉が乾ききっていて、つばも飲めなかった。
水を飲む前に、嗽をして、喉の中に潤いを戻さないと、何も飲めないような、そんな乾き具合だった。
朝、パンを買いに、1キロほど離れた場所にあるこの辺唯一のパン屋まで行き、バケットとクロワッサンを買って戻ると、建物の前でカイザー髭と出くわした。
ゴミ袋を抱えていた。昨日のぼくと一緒だ。ふと、その時のことを思い出したので、
「ええと、お孫さん、泊まってるんですね」
と言った。
「孫? いや・・・」
なんとなく、そういう返事が戻って来るのが分かっていた、というか、想像していたので、ぼくは驚かなかった。
そのかわり、昨夜の出来事をきちんと伝えてみた。すれ違った後、音がしなくて、振り返って少し追いかけたけど、もういませんでした、と・・・。
カイザー髭さんは、小さくうなずき、
「昔ここに住んでいた人が日記のようなものを付けていて、それを大昔に、自費出版している。ちっとも話題にはならない本だったが、この辺の図書館には残されいてる。この建物の歴史を知る上で重要な本だから、一度、図書館で探してみるといい。19世紀はここにはとある博士が住んでいた」
この博士は有名な人物なので、詳しくここにに書けないけど、この建物はその人の研究所というか病院兼自宅だったのだ。もちろん、貴族の出身である。
その人が他界し、20世紀になりここは転売され、各階に人が入って、管理組合が出来た。管理組合だけでも、120年以上の歴史がある。
「その昔の作家の日記の中に、たびたび、ここの住人がその少女と階段ですれ違った、という記述が出てくる。出現するのは、月が怪しく青く光る夜という記述もあった」
「昨日、そういう月でした」
「こんばんは、と声をかけると、こんばんは、と戻って来るそうだ」
ぼくはさすがに驚いた。まったく、一緒だった。
「そんな昔から、ずっと、その子はここにいるんですね」
「いるというか、なんと言ったらいいか、わからない。私は20年以上、ここに住んでいるけど、まだ一度もお会いしたことはない。今、ここに住んでいる住人で、その子と会った者はいないんだ。ただ、その子は、その博士の娘さんじゃないか、という噂もある。その子は、・・・」
これ以上、聞いちゃいけない。ぼくは話しを遮った。
ぼくは霊感が強いので、その子がぼくに何かを求めてくるといけないからである。
現世界と霊界は同じ世界にある。これはもちろん、ぼくの持論で、ある時から、ぼくはそう思うようになった。
「醒めながら見る夢」という映画にそのことを細かく記録したので、興味のある皆さんには観てもらいたい。ぼくの作品にたびたび出てくるイメージのようなもの・・・。
現世界と霊界は同じ世界にある(とぼくは信じている)ので、幽霊と言われるエネルギー体も当然、この同じ世界に同居しているのだが、ただ、ぼくらには見えない。
普通は見えないし、普通は感じない。でも、ある瞬間、信号をキャッチしてしまう人間がいる、ぼくのように・・・。偶然なのか、シックスセンスの力なのか分からないけれど。
ただ言えることは、そっとしておくほうがいい、ということだ。ぼくもそっとしておいてほしいからである。
「ところで、ぼくらは今日、パリに帰ります」
「わかった。気を付けて。今月末に管理組合の総会があるから、あとで、日程などを連絡するね」
「ありがとうございます」
ぼくは、日本式のお辞儀をして、カイザーさんと別れた。
※この月は、田舎に入った日の夜にアパルトマンの上空に出現したピンクの満月。この月が次第に欠けていった・・・・