JINSEI STORIES
滞仏日記「赤ちゃんカモメたちの離陸訓練がはじまる」 Posted on 2021/07/28 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、朝、起きて寝室を出たら、息子が天窓の下に立って、上を見上げていた。
「どうした?」
と訊いたら、
「しーッ」
と制されたので、思わず立ち止まり、ぼくも天窓を見上げた。
「聞こえない?」
赤ちゃんカモメの鳴き声かな、と思ったが、違う。
「なにが?」
「ほら、トタンをこする音」
よく耳をすませると、しゃかしゃか、と小さな音が聞こえてくる。
「????」
息子が笑顔で、
「たぶん、赤ちゃんカモメが自力で歩いてる」
「ああ」
やっと分かった。
大人のカモメたちは、どすんどすん、と凄い音で飛び跳ねるように動くので、すぐにわかる。それは信じられないくらいに大きな音なのだ。
うちが屋根裏部屋だから、天井がそのまま屋根とくっついているので、響く響く・・・。
それに引き換え、このスリスリと可愛らしく動いているのは赤ちゃん、またはちょっと子供になったカモメがトタン屋根を移動している、その音に違いない。
「可愛いね」
「お前も、そうやって立ち上がったんだよ」
「マジ?」
息子がぼくを振り返った。
「ああ、ハイハイしていたんだけど、ある日、親を真似て、あんな風に歩こうとした」
「で? 歩けたの?」
「2,3歩歩いて、倒れたけど、歩けた」
「そんな日があったんだ」
「あるよ、人間だもの」
ぼくらは笑った。
息子が天窓を見上げた。
ぼくも見上げた。
「でも、この子たちはここから飛び立つんだよね? じゃあ、離陸に失敗したら死んじゃうんじゃないの?」
「中には、いるかもしれないけど、神様はちゃんと本能を授けてるから、多分、大丈夫。馬でも、なんでも、生まれた瞬間に立ち上がって歩きだす。それが出来ないのが人間だ」
「人間は何年も親から離れられないものね」
「君がいい例だな。大変だ、親は」
「あはは」
ぼくらは笑いあった。
その時、親カモメが、天窓の上に飛び降りた。
ぼくらは驚いて、隠れた。
あまり刺激を与えないようにしよう、と昨日話し合ったのだ。
親は、子供たちが飛び立つまで殺気立ってるから、天窓からは覗かないようにしよう、と決めた。
「パパ、もしかしたら、離陸訓練をしているのかも」
「なるほど。昨日、下のカイザー髭さんが言ってたね、巣立つ練習をしてるって」
「たぶん、親が飛び方を教えて、実際飛んで、羽ばたき方とかを見せてるんだよ。パパもやったんでしょ? 歩き方を」
ぼくは黙って息子を見た。
「家族で、見守ったんだよ」
「・・・・」
「そして、君が立ち上がった。感動したよ。その時の写真をパパは持ってる」
「ほんと?」
ぼくはパソコンを操作し、ハードディスクに入っている息子の名前のフォルダーを開いた。おしゃぶりを口につけ、頭にぼくのハンチングをかぶった、赤ん坊の息子の写真だった。
「ほんとだ、立ってる。ハンチングかぶってたの?」
「君がパパのハンチングを掴んで、真似て、(笑)、自分で頭にのせた」
「へー」
その時、カシャカシャカシャ、と音がした。
ぼくらはこっそり天窓を見上げた。
親カモメが羽ばたき、屋根の少し上でホバークラフトみたいに滞空している。美しい羽ばたき方だった。見上げている小さなカモメがその下にいるのだろう。
親カモメが飛び立った。
ミーミー、ミーミー、と声がした。羽根を動かし、離陸のための訓練をしている小さなカモメの絵が見えた、気がした・・・。
「今にも、飛び立ちそうだな」とぼく。
「うん。凄いことだ」と息子。
ぼくらは天窓を見上げたまま、しばらくの間、一生懸命羽ばたこうとしている赤ちゃんカモメの離陸訓練を想像たのである。
夕方、ぼくには大事な役目が残っていた。
それは、息子の進路についての話し合いであった。
海沿いに最近できた日本居酒屋があるというので、2人で出かけた。
そこで向き合って座り、最初はカモメの離陸訓練の話しをし、そこから、息子の進学の話しへと移った。
「で、大学なんだけど、今の君の成績だと君が狙っている志望校は、100%無理だと、その大学の出身者が口をそろえている。これは現実だ。だから、パパからのアドバイスだけど、他の道、他の大学とか、選んだらどうだ? 田舎に勉強道具も持ってきてないような受験生だ、受かるはずがない。音楽ばかりやってる。死に物狂いで頑張っているなら、応援するけど、ダラダラやっている今の状態じゃ、さすがに応援はできない。パパはそういう人生は応援しない。やれると思うなら、自力で働けばいいよ。でも、何かなきゃ、ここフランスでそれなりに生きていくのは相当大変だぞ。かもめの赤ちゃんは離陸したら、親から離れ、自分で餌を探すようになる。そして、1人で生きていく。巣立つまでが親の仕事なんだ。屋根から落ちて死ぬか、大空に舞い上がるか、それは自分次第だってことだ。わかるか?」
息子は黙って、ぼくの話しを聞いていたが、返事はしなかった。
風に逆らわず優雅に乗る、自由なカモメのような人間になってほしい、と願いながら、ぼくは息子の返事を待っていた。
つづく。