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自分流塾「生きるのが面倒くさい。さて、じゃあ、どうする?」 Posted on 2021/07/16 辻 仁成 作家 パリ

生きるということは「面倒くさい」と思うのことの連続である。
怠けモノでもないのに、なぜ、面倒くさいと思うのだろう? 
仕事が面倒くさい、人間関係が面倒くさい。そもそも自分が面倒くさい。そしてそういうことが積み重なって、生きること自体が「面倒くさい」になる場合がある。
これら面倒くさいことから、どうやって乗り越えていくか、と考えることがぼくにとってはある意味「人生」だったり、した。
「面倒くせー。やだー」と思う時といのは、必ず、自分が無理をしている時というか、心になんらか負担を強いている時である。
だから、面倒が臭くなるのだ。
ぼくはいつも、「面倒くせー」と思う時は、「さて、じゃあ、どうする?」と静かに自問するようにしている。
面倒くさいだけで終わってしまうのはよくない。
常日頃から、「生きることには必ずソリューションがある」と自分に言い聞かせておく。
面倒くさいが確定してしまう前に、そう思ったなら、じゃあ、どうしよう、と出口を探すようにしている。
倒れたら、人間は必ず起き上がるじゃないか。
起き上がらない赤ちゃんはいない。
つまり、起き上がることは人間の本能なのである。



面倒くさいを乗り越えていく時、人間は成長をしているのだと思えることも大事だ。
「ああ、こういう状況を乗り越えたら、またぼくは一段人間として上達するんだな」と、ちょっと自虐的に自分に言い聞かせてみるのもいい。
生きてる間は、この「面倒くさい」がなくなることはない。
それが生きることなのだから、大なり小なり「面倒くさい」はしょっちゅう降りかかってくる。
正直、打ちのめされることもある。結構、あった。笑。
そういう時にはしばらく倒れて気を失ってみるのも悪くない。
そのうち、意識が回復して、本能が人間を立ち上がらせる。
そうだ、人間が必死で立ち上がろうとするのは、この本能のせいなのだ。
赤ちゃんの頃から備わった能力といってもいい。



「七転び八起き」ということわざがある。
七回転んだら普通は七回起きるのに、八起きになっているのはなぜか。
人間が生まれた時に、すでに一回起き上がっているから、という説がある。
なるほど、でも、ならば死ぬときにもう一度倒れるので、そうなると、「八転び、八起き」こそが本当なのか、と理屈っぽいぼくなどは考えてしまう。
しかし、要は、転んだら、しばらく寝込んでも起き上がるのが人間だ、ということに他ならない。
人生は「八転八起(はちてんはっき)」だと思って生きていくのはどうだろう? 
ついでに、どうせ、起き上がるなら、早い方がいい、とせっかちなぼくは考えてきた。しかし、急いで起き上がると、心の無理が癒されない。だから、最近は時間をかけて起き上がるようにしている。
まだ、まだだ、まだ起き上がるな、と自分に言い聞かせる。
ゆっくりと、しかし確実に、起き上がることが大事だ。
そうするようになってから、ぼくの心は楽になった。
面倒くさい状態に追い込まれたら、倒れたその場所に胡坐(あぐら)をかいて座り、しばらく、やれやれ、と半生を振り返ったりしながら、様子をみる。
そして、気力が戻った時に、よっこらしょ、と立ち上がる。
人生は長いのだ、のんびりと立ち上がればいい。
どうせまた倒れるのだから、達磨(ダルマ)のように、しぶとく、起き上がるのがいい。
長い人生、いつだって、起き上がる準備は出来ているよ、と自分に言い聞かせておくのも悪くない。
さて、よっこらしょ。

自分流塾「生きるのが面倒くさい。さて、じゃあ、どうする?」



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