JINSEI STORIES
滞仏日記「母さんに、お前は気取っとる、と言われ、ぎゃふんの父ちゃん」 Posted on 2021/06/23 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日は、母さんがワクチンの接種をしたという知らせを受けたので、電話をした。どうだった?
「私はなんもあなたたちにしてあげられないのに、有難いとです」
と言った。
母さんの面倒はぼくの二つ下の弟がみているので、
「それは恒ちゃんに言ってよ」
と伝えておいた。
本当に、独身の弟は母の面倒をみてくれるので有難い。
恒ちゃんはいいやつで、努力家で、真面目な男だ。
でも、彼も若くないので、85歳の母さんとの2人暮らしは大変だと思う。
「君はいつ打てるの?」
「いや、まだ接種の通知が来ないから、分からない」
「コロナが落ち着くまでは我慢しろよ」
「あにき、ぼくはもう去年の春から一度も外飲みしてないよ。ずっと家で、母さんの背中を見ながらチビチビ吞んでるんだ」
うわ、申し訳ない。恒ちゃんの人生を奪ったみたいで兄として、心苦しくなった。
日本の個人事務所の社長をやらせ、母さんを押し付け、細かいことを全部任せているので、助かっているけど、彼は超大変なのである。
「じゃあ、打つまで外呑み出来ないね」
「仕方なかね」
母さんが、恒ちゃんの後ろでぎゃあぎゃあ、騒ぎ出したので、かわってもらった。
「あのね。あんたね、10月、福岡に来れんとか?」
「年内はまだわからない。変異株次第かな」
「なんで?」
「刺繍のグループ展があってね、阪急デパートさんでやるとよ。そしたら、誰かが、あんたが駆けつけてくれたら、活気が出るっちゃなかかって」
母さんは長年、フランス刺繍の先生をやってきた。今はもう隠居して、時々、後進の指導などをやっている。
母さんは耄碌はしてないけど、85歳なので、ちょっと老境を超えつつある。実家に行くのを楽しみにしてる息子曰く、母さんは野球中継の時、テレビの前一メートルに座って、目を血走らして、応援をする。選手がボールを落とそうものなら、
「この、バカったれがああああああああああ」
とこぶしを振り上げて怒鳴るのだそうで、その時は、別人格らしい。
そういう母親とずっと一緒に生きている恒ちゃんは、偉い。
息子曰く、恒ちゃんとババっていつも喧嘩しているんだよ、とのことだ。小言を言いあわないと一緒に暮らしていけないのであろう。
「君、大丈夫か?」
ぼくが電話を切る前に心配して訊いてみた。
「うん、まあ、なんとかやってるよ」
「すまんな。俺も、息子を社会に送り出すまではまだ日本に戻れないから」
するとまた母さんが弟の電話口でぎゃあぎゃあ騒ぎ出した。たぶん、弟から電話機を奪い取ったのであろう。
「あんた、まだ、そこにおるとか。言い忘れとったったい」
「なに?」
「見たとよ、テレビ。ぼんじゅーるとかいうやつば」
「ああ、NHKのBSね。どうでした?」
「あれやね、立派になったもんやね。NHKに出て、みんなに言われたとよ、先生、見ましたって。鼻が高かったとよ、低い鼻が高かったと」
「そうね、それは良かったね」
「あんた、みえはって、ご馳走ばかり作っとったね。普段からあんなもんばかり作らんとでしょうが?」
「みえ、はってないけど」
「はってないのか、あんなもの毎日、あんたらは食うとるとっちゅうのか? わたしもご馳走食べたか。お前の春ごはん、食べたかとよ」
「あ、そうだね、今度、行った時に、作るよ」
「だけん、いつ来るとや?」
「そうだね、コロナ次第だから、落ち着いたら、息子連れていくよ」
「あれはどこの料理ったいね? くすくす笑ってるみたいな料理」
「クスクスね、モロッコだよ」
「なんか知らんうちに、料理人みたいになったけど、あんた料理の本を出したって、誰かが言っとったけど、作家はやめたとか? やっぱ、もうからんとか」
「やめてないよ。儲かるとか儲からないとか関係ないよ」
「父ちゃんの料理教室ってレシピ本やろ?」
「知ってるじゃん」
「買いました」
「買うなよ。送りますよ」
「自分で父ちゃんって言うの、恥ずかしくないとか?」
「母さんにそう言われる方がうんと恥ずかしいよ」
「あ、お前、パリから田舎に引っ越したとか? テレビでなんか新居が映っとったよ」
「あ、うん。恒ちゃんから聞いてなかったの?」
「海が見えるっちゅうとこやろ。気取っとるなぁ」
「気取ってないよ」
「それに、なんか、あのハイカラな歌ば歌いよってから、エディット・ピラフ」
「ピアフだよ」
「相変わらず気取っとったいね。でも、よかよ。NHKやけん、多少は気取らんとならんとやろ? 全国放送やもんね」
母さんが大笑いをした。
「再放送はいつ?」
「さぁ、皆さんの反響があれば、再放送もありうるって、言ってたけど、無理でしょ。あ、でも、NHKのオンデマンドで4位なんだってよ。一昨日7位だったのに」
「オンブにデブって、なんか、横文字ばっかやね、相変わらず。お兄ちゃんは博学や」
「母さん、そろそろ、電話切ろか。長生き、よろしくね」
つづく。