JINSEI STORIES
滞仏日記「ぼくが大嫌いだった父さんのこと。父の日に」 Posted on 2021/06/21 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日は父の日であった。
「あ、そういえば今日、アレクサンドルの誕生日だよ」
と息子が言ったので、
「え、あ、そうか、覚えてたのか?」
「いや、朝、催促のメールがきた」
なるほど、・・・。笑。
「そういえば、今日は父の日だぞ」
とぼくが言ったら、くすっと笑って、知ってる、と息子が言った。
「知ってるんかい」
ぼくも笑った。それだけ、だったけれど・・・。
インスタのコメント欄に「父の日、おめでとう」というのがいくつかあって、この子たちが娘だったら、嬉しかったかもしれないなぁ、と思った。(同年代かもしれんやろが。なんで、若い子と思うのか、その思考ば疑うったい。←by 天国の父)
ま、息子というのは言葉が少ないものである。
ぼくも自分の父親に「ありがとう、父の日」なんて言ったことなかった。
というか、今日は、ぼくの父の話しである。
ぼくはずっと父親のことが嫌いだった。
そのことはこれまで何度もエッセイや日記に書いてきた。
でも、今日はちょっと違う。
実は過去のエッセイのせいで、親戚の人に怒られたこともある。
「お前は信一ッつあんのことが分かってない」と。
父さんの名前は辻信一。
ま、でも、仕事ばかりで遊んでもらった記憶がないのだから、嫌いという前に、ただ、いつも怒ってる怖い人という印象しかなかった。
働くのが大好きで、仕事の鬼で、家族サービスはほぼない人だった。
で、なぜか、今日、父さんのことを思い出してしまったのだ。
父の日だからかもしれない。きっと、そうだ・・・。
息子が今日、父の日、であることを知ったのは、血のつながった家族のLineグループフォンに入った「おめでとう」の5文字を見たからに違いなかった。
ぼくは父親に一度も、おめでとう、とか、ありがとう、を言わずにあの人と別れることになった。
でも、うちの17歳が、我が家に様々な波乱を持ち込むようになって、とくに数日前みたいな「出てけ」とぼくを怒らせるようなことをするようになると、なぜだろう、ぼくは息子くらいの年代の時の自分の夢を見る。
そこには、ぼくの父さんがいた。
ぼくは就職をせず、音楽の道へと突き進んでいた。
父さんは反対だったとは思うけど、ぼくが大学をやめると、好きにしろ、とそういう言い方で、放任してくれた。
で、ぼくは25歳でソニーレコードからデビューするのだけど、大学を辞めてから、デビューまでのあいだは、アルバイトで食いつないでいた。
でも、すぐに金欠になった。リハーサル代とか楽器を買ったりしないとならないからだ。
どうしてもお金が足りなくなると、父さんのすねをかじるのだけど、超怖い人だったので、ぼくはまず、母さんに電話をした。
「母さん、お金がないんだ。食べることが出来ない」
母さんは、息子が心配なので、へそくりとかを送ってくれる。
でも、それじゃあ、ぜんぜん、足りない時があった。
はじめてECHOESで東名阪ツアーをやった頃で、まだデビュー前、なのに、お金が必要で、催促を続けた。
ぼくは母さんがいつもへそくりを送ってくれていた、と思っていたのだけど、それは、母さんじゃなくて、父さんだった。
現金書留で3万円とか、多い時は5万円くらい入っていた。
時が流れて、数年前のことだけど・・・
「あれはね、父さんが出していたんだよ。自分では言えないから、私がかわりに送っていた。あの人はお前を甘やかしたくない。父さんもおじいちゃんにずっと助けられて東京の大学に入り、夢を実現させた。だから、お前がきついのは知っている。見殺しにはできない。もう少しだけ、様子を見る、といいながら、お金をくれていた。お前はそれで食いつないで、デビューが出来たんだよ」
とあかされたのだ。
父さんの口癖は、
「誰がここまで育てたと思ってるんだ。ちゃんとしろ!」
であった。
今、ぼくは息子にお小遣いを毎月、30ユーロあげている。でも、それじゃあ、足りない。物価が日本よりうんと高いフランスで、交際費のかかる高校二年生には少ない。もちろん、洋服だとか、昼食代とか旅行費とか、必要なものはすべて別途出している。でも、自由に使えるお金を30ユーロに抑えているのは、お金の価値観を学ばせたかったからだ。そのことでフォロワーさんからの批判を受けたこともある。でも、ぼくは上げたくない。足りない時は、もちろん、理由を聞いてちゃんと与えている。与えている時の方が多いけど、ぼくらの間には「30」という基本ラインが存在する。そのかいあって、彼は最近、金銭感覚がちょっとだけついてきた。
ぼくは息子に厳しいけど、自分は23歳くらいの時、一番父親に迷惑をかけていたのである。
もちろん、いざとなったら、その時の恩を息子に返すつもりでいるけれど、でも、彼がこの国で生き抜くためには金銭感覚だけは養ってほしいという強い願いもある。
難しい問題である。
ぼくは父親が生きている時に、マンションをプレゼントした。ぼくが30代の後半の時だ。まだ、母さんからこの裏話を聞かされる20年も前のことである。でも、ぼくは子供として当然のことだと思っていた。恩着せがましい話しだが・・・
父さんからお金をもらっていたとは知らなかった。
今も、母さんはそこで暮らしている。行くと、仏壇があって、そこに父さんの写真が飾られている。
ぼくはつい、最近まで、そこで手を合わせるとき、それは母さんを悲しませたくないから、父さんに手を合わせていたのかもしれない。父親が、自分にどのくらい愛情を傾けてくれていたか知らなかったからだ。
今は、どうだろう・・・
一方、息子は毎年、大川にある父さんの墓まで、自分の意志で、お参りに行く。そこの掃除をする。ぼくにかわって、彼がぼくの父親に、お礼を言ってきたのである。
不思議な関係だ。
そして、自分が父親になり、かつてのぼくのような息子の問題で頭を抱えるようになり、はじめて、父親の想いを感じている、ということなのだ。
父さんはぼくが作家になり、大いに喜んだ。父さんは博多の書店をまわり、「自分の息子なんです」と言っていたようだ。それが恥ずかしかった、ぼくはバカ者である。
どなたか、分からないけど、コメントに、「あなたは息子に対して恩着せがましい」という意見があり、たくさんの「いいね」が押されているのを見た。
そうかもしれない。
そういう言葉が飛び出すのはぼくがまだ未熟だからなのだろう、とは思う。でも、たぶん、ぼくはまた自分のことを棚において、同じことをこれからも死ぬまで言うだろう。
「誰がここまで育てたと思ってるんだ。ちゃんとしろ!」
それをぼくは変える気はない。
つづく。