JINSEI STORIES

滞仏日記「またしても、あの青白い男がぼくの前に立ちはだかり、たんぽぽ茶を」 Posted on 2021/06/15 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、田舎で暮らすようになり、自分の生き方とか人間関係とか人生の歩き方とか物事との対峙の仕方などが大きく変化してきた。
ここで出会う人たちは、良きにつけ悪しきにつけ、純粋なのだ。
でも、この田舎でいろいろな人たちと新しい人生を歩いている裏側で、ぼくの日常から息子のことが少し遠ざかっているのが気になった。
今日、麦わら帽子をかぶって、浜辺を歩いていたら、息子からメッセージが入った。
「いつ帰るの?」
おお、と思った。
ぼくは砂丘で立ち止まり、太陽の下、メッセージを打ち返した。
「誰か来るのかな? 恋人か? まだ未成年なんだから、気を付けてな」
「なにいってんの? ここには誰も呼ばないって言ったじゃん」
SMSでのやり取りだけど、なぜか、波の音に交じって、息子の声が聞こえてきた気がした。そりゃあ、息子だものな、幻聴のように、聞こえてくるだろう、と思った。
「いつ帰ろうか?」
「冷蔵庫の中のまずい料理、もう、つらい」
「あ、ちゃんと食べてるのか?まずいか」
「もちろん、空腹だから食べてるけど、まずいのを食べてる」
あはは、とぼくは笑った。
「だから、いつ戻ってくる?」
いつもSMSとかでは、うん、とか、大丈夫、とか、短いメッセージばかり送ってくる息子が、食べ物がまずいから帰ってこい、みたいなメールはよほどなんだろう、と思った。
小さい頃から美味い物ばかり食べてきたから、レトルトじゃ、辛いんだろう。
それはよくわかる。でも、そういう世界にも慣れないとずっとパパがそばにいてやることはできない。
「そうやね、来週には」
「ええ? マジかよ。餓死しちゃうよ」
「嘘だよ。明日かな。OK?」
「おけ」

滞仏日記「またしても、あの青白い男がぼくの前に立ちはだかり、たんぽぽ茶を」



珍しく「帰れコール」が来たので、帰らないわけにもいかない。
でも、パリに戻りたくない自分がいる。
なんだろう、田舎の水が合うのだ。新鮮なのだ。
確かに隣人たちは不気味だし、風変りな人たちだらけではあるけれど、パリでは経験できない新しい安寧があった。
それに、とっても創作が捗るのである。
小説に集中できる、作家にとっては素晴らしい環境なのだ。
窓を全部あけて、風通しをよくし、窓際の机で、小説をタイプする。
遠くに海が広がっていて、行間でくたくたになると、手を休め、海に視線を送る。
金波銀波をじっと見つめながら、物語の水平線を見つめるのだった。



館に戻ると、大扉に鍵がかかっていた。
ぼくは数歩後ずさりをして、頭上を見上げた。
3階のフィリップ殿下のアパルトマンのボレー(雨戸)が下りている。
その上のカイザー髭の家の窓も全部閉ざされている。
真夏日なので、窓も雨戸も閉まっているということは彼らは自宅に戻った、ということを意味している。
ついでに、大扉が閉ざされているというのは、最後の人がここに鍵をかけた、ということだ。
管理人がいないので、最後にここを退出する人間は必ず大扉に鍵をかけないといけない、そういうルールになっている。
月曜日、隣人たちは自宅に戻って行った。
館は静寂を取り戻していた。ぼくは大扉の鍵を開け、中に入った。そして、内側から用心のために大扉に鍵をかけていると、
トンツー、トントン、ツーツーツー、と配管を叩く、鉄の音がした。
慌てて振り返ると、エントランス廊下の突き当りに、プルースト君が立っていた。

滞仏日記「またしても、あの青白い男がぼくの前に立ちはだかり、たんぽぽ茶を」



「あ、ぼんじゅーる」とぼくは言った。
「ぼんじゅーる。さヴぁ?(お元気ですか?)」とプルースト君。
こんな真夏日なのに、ちゃんと黒いジャケットを着て、白いシャツには蝶ネクタイをしている。
たしか、引きこもりで、30年近く、この敷地から出たことのない人生だというのに、彼は敷地内でもこうやって、蝶ネクタイをしているのだ。
フランス人は身なりをキチンとした人も多いけど、だいたいそういう人は年配の方々で、普通の男たちはだいたい、特に夏は、よれよれのTシャツにサンダルという土臭い恰好をしている。プルースト君は実は紳士なのである・・・。
「それ、トンツー、トントンってモールス信号でしょ?」
ぼくが言うと、プルースト君が、驚いた顔をした。
「ぼく、実は小学校の頃、アマチュア無線やってたんで、だから、モールス信号、少しはわかるんだよ」
プルースト君、目を丸くして、ぼくをじっと見ていた。驚いているようだった。
奇妙な人物であった。
突き当りの階段脇の小さな扉があいていて、たぶん、そこから地下室に降りるようだ。
彼のご両親のフランケンとベルナデッドのアパルトマンはこの廊下の左右に大きな部屋を4室ほど持っている。長い歴史の一時期、ここは病院だったこともあり、この一階の大通りに面した広い部屋は診療室だった、と思われる。
カイザー髭が前に教えてくれた。
それとは別に、プルースト君は半地下で一人暮らしているのである。
米軍の秘密基地のような部屋だ、とベルナデッドは言ってたっけ? 想像するのが怖い・・・。
「お父さんとお母さんは、今週は来ないの?」
話しが進まなかったので、話題を変えてみた。
「来ない」
それだけかい?
じっと見られているのが気になった。髭は剃っているが肌が白い上に髭が濃いからめっちゃ青く見える。それがとっても病的に見え、夜だったら、悲鳴を上げていたかもしれない。



「君、日本人だろ? いつも日本語の歌を歌ってるね。聞こえているよ。ここは配管もあれば、通気口も、暖炉もあるから、君が夜中に歌ってるのとか筒抜けだよ」
「あ、そっか。誰も住人がいないと思ってたから歌ってたけど、君、住んでるんだものね」
プルースト君、黙ったまま、ぼくをじっと見ている。あまり、見るなよ。
「これから、夜はやめておくよ」
「いや、かまわない。ぼくは君のギターも歌も好きだよ。ぼくは地下で暮らしているから、配管に耳を当てると、鉱石ラジオみたいに室内に響き渡る。第二次大戦下のレジスタンス、抵抗運動時代の解放ラジオみたいだ。闘争心が出る」
「と、闘争心、な、なんの? レジスタンス?」
「何の歌? 何について歌ってるの?」
「いろいろだけど、孤独な人の歌が多い」
「トレビアン」
プルースト君がほほ笑んだ。怖い。青白いちょび髭、でも、すごい周囲は剃り残し、・・・ちゃんと剃れよ、と思った。そっか、誰にも合わないから、剃る意味もないんだ。じゃあ、剃らなきゃいいのに・・・君、中途半端なんだよー。
「ぼくが長いこと、ここで一人で暮らしているのは知ってる?」
ぼくは頷いた。カイザーに聞いたとは言えないので、それ以上は黙った。
「でも、音楽はいいね。散らかってるけど、ぼくの家に来ないか?お茶でも」
そういうと、プルースト君は、身をひるがえし、廊下の突き当りの小さな扉を指さした。そこは暗く、奈落に落ちる穴のようであった。とてもじゃないけど、ぼくにはその勇気がなかった。
「たんぽぽ茶があるよ」
「た、た、たんぽぽ茶?」
「ちょっとコーヒーみたいな感じ。薄い、コーヒーみたい。でも、身体にはいい」
いや、とぼくはかぶりを振った。薄いコーヒーって、飲めるかよ、そんなの。
「ちょっと、仕事があるので、失礼します」
ぼくは無理やりひきつった笑顔を向け、お辞儀をすると、階段を上り始めたのである。
「遠慮しないで、歌っていいよ! ぼくは楽しく聞いてるんだから、遠慮しないで」
ゲ、・・・まじかよ。聞かないでいいよ。たのむよ、青髭・・・。

つづく。

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