JINSEI STORIES
滞仏日記「悪いことは出来ないものだ。父ちゃん、大、大、大失敗の巻」 Posted on 2021/06/10 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日から、フランスのレストラン、カフェでは、席数の制限はあるものの、店内での食事が可能になり、しかも、21時までだった外出制限が23時まで延長されることになった。
そこで、ぼくも家で作って食べるのには飽きたので、カフェに行き、ゆっくり食事をしたいと思ったのだけど、フレンチというのは日本人の胃袋には重い。
バターをかなり使うし、あとベルネーズソースとかベシャメルソースとかやっぱり重いのがてんこもり・・・。
なので、どうしてもカフェ飯に手が出ないのだけど、でも、なんとなく意地で食べたい父ちゃん。
しかし、醤油とか持ち込むのは実は御法度。
これは本来、やっちゃいけないマナーなので、父ちゃんも今まで、一度もやったことがない・・・。えへへ、本当です。もう一度行っときます。本当です。
まず、見つかると恥ずかしい。
しかし、毎日、バターというのがどうしても辛い。年だぁ。
昔、旅先で、携帯醤油さしを、鞄から取り出したところを息子に見つかり、「やめてよ、かっこ悪いから、そういうの本当に日本の恥だから」とかなり叱られた。
フランス生まれの息子がそう思うのも当然だし、ぼく自身、日本からきたお客さんがおもむろに、醤油とかを鞄からとりだし、料理の上にどかどかぶっかけていたら、嫌だし、逃げだしてしまう。
しかし、フランスのグリル料理、たとえば炭火焼料理みたいなものに、和風のスパイスとか調味料はことのほかマッチする。
特に「鯖の塩焼きプレート」これはめっちゃ醤油があう。レモン、塩、醤油の黄金比が素晴らしい。
高級レストランじゃないと、フラー・ド・セル(塩の華)は置いてないから、ゲランドの塩とか持参するのもいい。
あ、あと、ローストチキンには、七味とか、柚子胡椒とかもうほんとうにめっちゃ合う。しかし、これはやっちゃいけない。
本当に、フレンチ料理を侮辱する行為なのでやっちゃいけない。
でも、気が付いたら、ぼくは鞄の中に、醤油と山椒とおにぎりと昨夜の残りの卵焼きを詰めこんでいた。
ぬぁにーーーーーーーーーーーーーー。
自分が怖い。なんたる侮辱。それで、フランス親善大使が務まるのかぁ・・・と天の声が聞こえてきそうだ。
そういうところを関係者に見つかったら、ぼくは大使をやめないとならない。えへへ。これ、勇気がいる。
ということで、恥を覚悟で、隣村の海岸線沿いにある大きなビストロへと出かけた。
もはや動きがおかしい。やっちゃいけないことをやるのだと思うと、右足と右手が同時に前にでて、左足と左手が同時に前にでてしまう。変なおじさんだった。
「ぼんじゅーる。端っこの席で、一人なので」
とめっちゃ怪しい言い訳をギャルソンにしている父ちゃん。で、奥の席を指さして、あそことかいいなぁ、と小声で訴えたりしていた。
しかし、ギャルソン、挙動不審の日本のおやじを、上から下までじろじろと見回し、こちらへどうぞ、とテラス席のど真ん中に座らされてしまった、じゃないかぁーーー。
なんたるこっちゃ、まんまみーや。最初から作戦失敗であーる。この席じゃ、悪いことが出来ない。
ぼくの左右にフランス人の年配のカップルが座っている。
座る時に、またもや、じろじろと見られた。この時期にアジア人の男がふらふらと一人で田舎の村で食事をしているもおかしいのだ。
これは、かなり難しいシチュエーションである。
「いらっしゃい、なんにしますか?」
何食わぬ顔で、ここの名物と謡われた、鯖の塩焼きグリル定食を頼んだ。白ワインも。
鞄の中に手を入れてみた。携帯醤油と山椒を掴んだ。その横に、なぜか、おにぎりと卵焼きがある。
ああ、これは無理だ。絶対無理だ、と思ったら冷や汗が出てきた。
・・・・母さん、ごめんなさい。
お隣の高齢のマダムと目が合った。いつもなら、チャーミングな笑顔をふりまいて、冗談を飛ばして、場を和ませる父ちゃんだが、今日は無理。
もう、めっちゃ怖い顔で、マダムをにらみ返してしまったじゃないか!!!!
オーマイガッ。
マダムに、ふんと、そっぽむかれたフランス親善大使であった。ああ、日仏の友情に亀裂が・・・・
待つこと十分、冷や汗のせいでシャツがびしょびしょになっているところに鯖が到着。
見事な鯖で、さばびあん、という冗談が寂しく口をついて出た父ちゃんだった。
「何か、お気分でも悪いですか?」
ギャルソンに心配されたので、ぶるぶるぶる、と頭を左右にふって、否定したが、その様子も変だったのか、危ないやつと思われたのか、ギャルソンは、黙って去っていった。
かくして、ぼくの目の前に巨大な鯖の塩焼きがでーんと二尾も。
ああ、醤油かけたい。でも、出来ない。
鯖の塩焼きには白ご飯、つまり、持参したおにぎりが合う。
鞄の中に手を突っ込み、小さな小おにぎりを掴んだまま、動けないでいる父ちゃん。手りゅう弾を掴んだテロリストのような感じだったと思う。
反対側の席のムッシュがぼくの挙動を不審がってるのがわかった。
おにぎりはもう、諦めよう。
さすがに、親善大使がここでおにぎりを出して食べたら日仏の関係は終わってしまう。
バゲットで我慢するしかない。あはは。
「おちつけ、ひとなり」
ぼくは自分に言い聞かせ、まずは、シェフをリスペクトして、そのまま食べてみようじゃないか、とフォークとナイフで鯖をカットし、口に運んだ途端、
「まいうーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
となった父ちゃん。これはマジ、うまい。しかし、心の中では続けて、
「これ、間違いなく、醤油ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
と叫んでいた。
ああ、眩暈がしてきた。ぼくは意を決し、心を鬼にして、携帯醤油を鞄から取り出し、まずは何気なく、人目に届かない、ワインとお水の横に隠したのだった。
置いておくだけだから、問題はない。心を落ち着かせるための、準備である。
左右のご夫婦をちらっと確認した。彼らはそれぞれの世界に入っている。
しめしめ、ついに実行の時が来た。ぼくはゆっくりと手を伸ばし、携帯醤油を掴んだのである。それを素早く自分の手元にもってきて、醤油の蓋を外しにかかったその時、
「お料理はいかがですか? あれ、食べてない。お口に合いませんか?」
とまたまたあのギャルソンが後ろで騒ぎ出した。
なので、ぼくはそのまま、携帯醤油を鞄の中に放り投げ、
「いや、あまりに美味しいからもったいないので、ゆっくり食べてるんですよ」
と言い訳をしなければならなかったのだ。
「でしょ? 今日獲れたばかりの鯖ですから、油がのって美味しいですよね」
とギャルソンは言った。あはは、早く、あっち行けよ。
つまらない話しを少しして、ようやく、ギャルソンがぼくから離れたので、醤油を、・・・
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
ぼくは蓋を外した携帯醤油を鞄に放り投げたことを思い出して、卒倒しそうになった。
なんと、醤油が鞄の中で溢れて、カード入れとかお財布とかマスクとかを汚していたのである。ゲゲゲの鬼太郎。
やはり、悪いことはできない。親善大使の父ちゃんは、鞄をしめ、おとなしく鯖を食べて、多めのチップを置いて席を立ち、醤油で部分的にシミが出来たカラフルなマスクをして、家路についたのである。
もう二度と、こういう恥ずかしいことはしません、と神様に誓いながら・・・
それにしても、鯖、うまかった!!! さばびあーーーん。
つづく。