JINSEI STORIES
滞仏日記「二コラを8時間一人で面倒みることに。息子は逃げた。どうする?」 Posted on 2021/06/06 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、二コラのパパから、また電話。本当にどうしようもない父親である。←言い過ぎ。というのは彼は彼で新しい恋人とのあいだにいろいろと問題があり、まだ若いからね、落ち着かないのだろう。
ところで、実はコロナ禍以降、ぼくは子供を少し避けていたのだけど、ワクチンを接種したことで、家の中でマスクもしなくなった。過信はいけないけど、ワクチン接種によって、再び子供たちと遊ぶことが出来て、ちょっと嬉しい・・・。
で、上のマノンちゃんはもう大きいからさっさと友だちの家に避難し、二コラ一人が邪魔ものとなって、融通の利くぼくのところに預けられることになった。いつものパターンである。
「8時間?」
「ごめんなさい。18時に迎えに来ますから。もう、ほったらかしてても、大丈夫ですから、ランチだけ、なんか適当にお願いします」
と言い残して、お父さんは消えた。
で、二コラがぽつんとうちの玄関にとり残された。
ま、息子もいるし、三人でご飯食べたりしてればいいか、と思ったら、息子がおしゃれな恰好で部屋から出てきて、
「え? ぼくはデートだよ。夜、九時までには帰ってくるけど」
と言った。
つまり、二コラと二人きりになったのである。これって、初めての経験かもしれない。
午前中は仕事場でパソコンに向かった父ちゃんであった。
二コラは食堂のテーブルがお気に入りみたいで、そこでお絵描きをしていたのだけど、どうしてるんかなぁ、と覗きに行ってひっくりかえった。
これがなかなか絵が上手だ。
漫画か?
日本の?
すげーーー。
「上手だね」
「うん」
「なんか食べるか?」
「何があるの?」
何があったかな? と考えた父ちゃん。キットカットがあったので、キッチンから持ってきて与えたら、
「わ、美味しい」
と言った。よかった。子供が喜ぶのは、嬉しい。
「お昼ごはん、何が食べたい? おじちゃんと二人なんだよ」
いろいろと考えている。
「ラーメンがいい」
「おお、ラーメンか。ある。ちょうど生めんがある。じゃあ、一緒に作るか?」
「え? この間みたいに?」
「この間? 」
「ムッシュ・ドロール。ほら、テレビの撮影したよ」
ムッシュ、ドロールとぼくは子供たちに呼ばれている。変なおじさんという意味だ。ううう、定着してしまった。一生、ぼくは変なおじさんである。
「変なおじさん、このあいだね、おにぎりの作り方習った時、テレビの撮影したでしょ? あれ、もう日本で放送されたの?」
あ、そうだった。NHKのドキュメンタリー番組の中で、ぼくがおにぎりを二コラに教えるというくだりがあって、息子がカメラを回したのだった。忘れてた。
「もうすぐだよ。あの場面が使われているかどうか、ちょっとおじさんにはわからないけど、もし、使われていたら、一緒に観よう」
「うん。どんな番組なの?」
「おじさんが、ご飯をつくったり、歌ったりする番組なんだよ」
「おじさん、訊いていい? おじさんのお仕事はなに?」
「おじさんの仕事は精一杯生きることなんだ」
「それお仕事になるの?」
「なるよ。おじさんは文章書いたり、歌ったり、テレビに出たり、映画作ったり、一生懸命生きるのが仕事なんだ」
「へー。いろんなお仕事があるんだね」
「うん、君は絵が上手だから、それが仕事になるといいね」
「うん。ぼく、絵が好きだから、それをお仕事にしたい」
笑顔の二コラ。お父さんは新しい恋人とすでに暮らしだしているので、家の中ではあんまり笑顔が出せないだろうな、と想像をした。
ぼくらは並んでラーメンを食べた。なんとなく、ぼくがシングルファザーになった時のことを思い出してしまった。
あの頃も、この子くらいの年齢の息子と二人で毎日、食事をしていた。
会話に行き詰まると、笑わせないとならない、と思い、あの手この手で笑わせようとして、逆に息子がへきえきとして、やめてよ、と叱られていた。あの頃、息子に、
「パパはどうしてたくさんのお仕事をしているの?」
と訊かれたことがある。
「それはね、好きなことがそれだけあったからだ」
二コラ君、ラーメンを一口食べた瞬間、うーーーーん、と唸った。うちの子もよく唸ったものだった。美味しいと唸る。こっちの子たちは分かりやすい。
「セボン?(うまいか?)」
「トロボン!(めっちゃ美味しい!)」
今日は昨日の残り物の麻婆豆腐にみそを入れ、肉みそ風にアレンジし、薄味の醤油ラーメンの上に、白髪ねぎをのせてみた。子供はシンプルな味が好きだ。なぜか、二コラは辛いのが大好きなので、助かる。
食後、外出した。二コラは青い目なので、ぼくが誘拐犯に思われてはいけないので、お父さんに外出証明書を作ってもらっておいた。
土曜日なのに、一日家に閉じ込めておくわけにもいかない。
車に乗りたいと言い出したので、ぼくが運転をして、美味しいケーキ屋さんまでドライブすることにした。
「ムッシュ・ドロール。ところで、運転できるの? なんか運転できなさそうだから」
ぼくがハンドルを握りしめ、運転をし始めると、訊いてきた。
「出来るよ。おじさんは、25歳から運転している」
「へー。ぼくも運転したいな」
「あと10年したら出来るよ」
「パパもママも車持ってないから、嬉しいな」
「そうか、じゃあ、ちょっとドライブするか?」
「うん!」
ということで、二コラ君を乗せて、ぼくはパリをぐるっと一周することになる。これは大喜びだった。窓の外をじっと見ている二コラ。小さかった頃のうちの息子を思い出した。
「パパとママがね、喧嘩ばかりしてた」
不意に、そんなことを言い出した。パリはいい天気であった。ぼくはセーヌ河畔の道を走った。普段、二コラが見ることのない景色が広がっている。
「それである日、家が二つになった」
「うん、そうだね」
「でも、今はもう喧嘩しない。二つ家があるから」
その後ろ姿に思わず、涙がこみ上げそうになり、ぼくは歯を食いしばった。
ぼくが好きなケーキ屋さんの前で車を停めて、二人でお菓子を買いに行った。
「イチゴがいい」
と二コラは言った。これは今が旬のこの季節しか出ないフレジエというケーキである。
おお、目が高い、と思った。実はここの名物で、パリで一番おいしいイチゴのケーキはこれなのだ。
甘くなく、上品で、控え目なイチゴのケーキ。ぼくらはそれを三つ買って帰った。
家に帰ると、家では禁止されているゲームをやりたいというので、こっそりとやらせてあげた。成績が下がったので家では禁止されているらしい。
甘やかしちゃいけない、とは思うのだけど、うちだけは彼の逃げ場であればいいな、と思うのだ。人間、どこかに、逃げられる場所があることは大事だ。
ぼくでよければ、匿ってあげたい、いつでも・・・
18時半に、マノンが二コラを迎えにきた。マノンにケーキを一つあげた。