JINSEI STORIES
父ちゃんの料理教室「毎日を丁寧に生きる。それが今ぼくらに一番大事なこと」 Posted on 2022/12/07 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ぼくが毎日、自分に言い聞かせていることがある。それは苦しい時に、それは気が急いている時に、それは人生が停滞している時に、ぼくはキッチンに行きながら、
「ひとなり、人生を丁寧に生きることだよ」
とつぶやくのである。
不満ばかり起きたり、いらだちが遠ざからなかったり、神経質なことが多い時、ぼくは自分に向かって、人生を丁寧に生きようね、と諭すのである。
不意にコロナが大流行しはじめた時、不安だった日々も、ぼくはぼくに「人生を丁寧に生きなさい」と言い続けてきた。
それは普通の、ごく当たり前のことなのだけど、でも、それが出来てないと人間は少し壊れてしまう。
毎日、6,7時間ちゃんと寝ていないとやはり人間が壊れるのと一緒だ。
規則正しい生活というのは人間活動をする上で、もっとも大切なことなのだ。
そう思いませんか?
ぼくはかつ丼を作りながら、そう思うのだ。そう、自分をいさめるのである。
自分を安定的に保つうえで、料理はランニングや筋トレや座禅やヨガにも負けない、いや、それ以上に効果のある人間性回復行動なのだと思う。
ぼくは苦しい時にはキッチンに行く、そして、そこで豚汁の出しを丁寧にとったり、魚を三枚におろしたり、鶏肉を解体したり、残った骨で翌日のラーメンのスープをとったり、時にはピザ生地をこねたり、それを息子や近所の子供たちに教えたり、残ったご飯を冷凍したり、ついでに冷凍庫を掃除し、奥の方から出てきたまだ食べられそうな食材を使って、奇想天外な料理を創作してみたりするのである。
毎日を丁寧に生きることが、今、どんなに大事かということだと思う。
ぼくは料理人じゃないから、息子のためにご飯を作る普通の父ちゃんとして、しっかり、キッチンに向き合いたい。
ああ、こういうことなんだな、生きるということは、と思いながら、毎日、水道で米を洗っている。
ご飯の水の量を加減しながら、時に塩昆布とかをいれたり、味付けご飯にしたり、そういう工夫が生きることに張り合いを呼び覚ますのだ。
ぼくは肉吸いうどんを作りながら、思うのだ。それがあまりに美味しいそうに出来ることに、毎日の張り合いを覚えているのだ。
田舎暮らしをはじめて、都会から田舎に拠点を移したことにも、同じような「丁寧に生きる」ことがベースに横たわっているのである。
ただ、コロナが怖いから田舎に逃げただけじゃない。
コロナがきっかけになり、これまでの飽食な人生観に疑問を感じたのだ。
海を見下ろす丘の上の最上階の屋根裏部屋で、ぼくは天に少し近い場所で、人生をリセットしているのである。
そして、そこでパリでは経験できなかった、食材ともっと近い、海や畑に近い食材の産地で美味しいたべものを日々作ることの中に、ある種の人生の醍醐味と喜びを見つけている。
ある意味、ここに、修行を兼ねているのかもしれない。
あるいは港に行き、新鮮な魚介を漁師さんたちから分けてもらい、彼らからもっとも美味しい食べ方を聞き出し、そして、たとえば、アサリだと、その命を直前に頂くわけで、有難い、と祈りながら美味しいを噛みしめるのである。
田舎はとっても不便で、コンビニなんて一切ないのだけど、漁師が岸辺に船をつけるのをじっと待って、魚介を手渡される瞬間の喜びというのは何物にも代えられない、素晴らしい天のご褒美なのである。
時間が必要になる。気長に待つことが大事にある。それが丁寧に生きるということだ。
何時間も、コトコトと煮込んでいくのを気長に待つことが大事なのだ。
漁師から手渡されたアサリを一晩、じっくり砂抜きをしていく。
アサリに砂を上手に吐き出される方法がある。
ぴゅー、ぴゅーと勢いよく田舎のアサリは水を吐き出す。
丁寧に食べるための丁寧な作業なのである。
命を頂くから、頂きます、なのだ、と父ちゃんはアサリのボンゴレを作りながら、そう思うのだ。
そう思うのである。