JINSEI STORIES

滞仏日記「息子の涙」 Posted on 2021/05/24 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、息子が、きっとぼくの目の前で泣いたのはこれが二度目のことになる。一度目のことはもう思い出したくないので、書かないけど、8年ぶりに彼が流した涙を、見た。

今日は一日、地球カレッジの文章教室の日だったので、日曜日の大半をそのために使った。本業の講義だったから、いつも以上に真剣にやらなければならず、へとへとになった。笑。
で、なんとか、文章教室が終わって、外に出たのだけど、すると、なんか景色が違う。
なんで?
田舎に引っ越し、この一月、パリから離れていたからか、久しぶりにパリで寝泊りしているからか、なんか、ここパリが別世界みたいに見えて仕方がない。
パリが寂しがって拗ねてるというのか、うーむ、なんかこれまでと見え方がぜんぜん、違うのである。



もちろん、ワクチン接種ががんがん進んでいるので人流が変わってきたというのもあるだろうし、ぼくみたいな疎開組が増えて、パリから人がいなくなってるからかもしれない。
たぶん、ぼく自身の気持ちが、アパルトマンを買ったことで「居住地=田舎」という認識が出来てしまった、からかもしれない。
パリがどんどん仮の宿になっていく。
そういう目で見ているからか、パリがいま、ぼくの中で、都会らしくないのである。
テレワークが進んだので、人々は会社にいかなくてもよくなったし、感染が怖いから、出てこないので、周囲に人の気配が希薄なのである。
やはり、コロナのせいなのであろう。人間が都会を目指さなくなった、ということかもしれない。
夕食の後、息子が席を立たないので、どうしたのかな? と思った。



「最近どうなの? って、パパ、昨日、ぼくに聞いたじゃない」
おっと、なんか言いたそうだな、と思ったので、ぼくは立ちかけていたけど、もう一度、席に腰を落ち着け直すことになる。
そうだ、最近どうなの? と訊いたら、この子は、まあまあ、と答えたのだった。
息子の視線がテーブルの上を這っている。
こういう落ち着かない態度をぼくに見せるのは久しぶりのことだ。
息子がしゃべりたいのが分かる。この子の親を17年以上やっているのだ、分からないはずがない。
昨日は、昨日の日記に書いた通り、息子がいまのガールフレンドに振り回されているのじゃないか、と心配になっていろいろ話しをしようと試みたのだけど、話しをはぐらかされて、けむに巻かれたのだった。詳しくは昨日の日記に譲ることにする。
でも、何か言いたげだったので、やっぱり、恋人のことだな、と感じた。

滞仏日記「息子の涙」



さりげなく、
「無理しないと付き合えない子とは一度離れたらいいよ」
と言っといた。
息子は黙っている。
「お前が今までにないくらい無理しているのがわかるんだけど」
「・・・・」
ぼくらは黙りあった。
二人のあいだには、お皿やお茶碗がまだ、片付けられず、そのまま・・・。
「そんなに無理しないと付き合えない関係を恋人とは言わないよね」
黙ってる。
「君があの子を大切に思うのはいいけど、でも、その子は君を君が思うのと同じくらい大切に思ってる? パパが余計なことを言ってると思ったら、遮って部屋に戻った方がいい」
席を立たない。
ぼくは椅子に深く座りなおした。
「じゃあ、よく考えてみよう。身体がきつくないか、心がつらくないか? なぜ、自分を犠牲にしないとならない? その子と一緒にいて、心から笑えることがあるのか? その子と一緒にいて心から安心できる瞬間があるかい? 背伸びしないと一緒にいられないような関係だとしたら、へとへとになるだけだ。いい勉強が出来たと思って、友だちに戻ればいいんだよ。違う?」
黙ってる。
「その子がいま、恋人がいないから、その寂しさを埋めるために、とりあえず、君がそこに置かれているだけであるなら、そういう恋人でいいの? 愛は取り引きするものじゃないよね、同等じゃないと」
黙っている。
「重要なことは、同じ星を見ることのできる人だよ」
息子が、顔を上げた。
「どういうこと?」



「恋人というのは夜空に浮かぶ同じ星を一緒に見ることのできる人だ。多分、その子は違う星を見ている。同じ夜空は見ているけど、二人は別々の星を見続けている。同じ星を見ることが出来ない。ずっと違う星を見続けているんだよ、それでいい? 君に必要なのは、これからの未来、同じ星を一緒に見てくれる人じゃないの? 」
何気なく、言ったのだけど、不意に、息子の目が赤くなった。おっと、これ以上言わない方がい
いな、と思っていると、
「そうだと思う」
と呟いた。
今度はぼくが黙った。息子が涙を流した。
涙が頬を伝ったので、やれやれ、と思った。
「ありがとう」
そう告げると、息子はゆっくり立ち上がって、
「パパはやっぱり、パパだね。何にも話してないのに、全部わかってる」
そう言い残した。

滞仏日記「息子の涙」



自分流×帝京大学
地球カレッジ