JINSEI STORIES

滞仏日記「お金がない、何か仕事ください、と息子が言った」 Posted on 2021/04/30 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、キッチンで料理をしていたら、息子がやってきて、
「パパ、何か仕事ないかな?」
と言った。
「仕事? なんで?」
「あ、ええと、お金がないんだ」
ぼくは息子に毎月、30ユーロの小遣いをあげている。
日本円に換算すると4千円弱なので、けっこうあげているつもりでいたけど、交際範囲が広がり、朝から晩まで外で遊んでいる息子にはちょっと足りないようである。
スーパーでサンドイッチとジュースを買うだけでも8ユーロはかかる。
30ユーロだと、4回程度しか、仲間たちと外で食べたりできない。



実はフランス、日本に比べ物価がものすごく高い。
サンドイッチが一つ、5ユーロ(700円)くらいするのだ。
息子は、友だちも多く、しかもガールフレンドもいるので、お金足りないだろうな、とは思っていた。
「家で食べてから出かければいいじゃん」
「そうもいかないよね、呼び出されて、ぼくだけ食べないわけにもいかないし、みんなと食べたいしさ」
分かるなー、と思った。でも、だからといって簡単にお小遣いを上げるのも、違うかな、と思った。
「だから、仕事貰えると助かるんだけど」
「前に窓拭きをちょっとやったじゃん、続かなかったよね」
「うん。でも、あれでもいい。またなんかやらせてもらえないかな?」
ぼくは腕組みをして、窓の外を眺めながら考え込んだ。
お金がない、仕事をしたい、ということは悪いことじゃない。
そうやって生きることの大変さを覚えていけばいい。
なんにもしないのに、ぽんぽんお金をあげたらこの子は価値観の定まらない子になってしまう。

地球カレッジ



「ほら、前に、地球カレッジのテーマソングやらせてもらったじゃない。できれば、ああいう仕事またやらせてほしいな。好きなことでお金を貰えるのが一番僕もやりがいがあるし」
「ああ、たしかに。でも、そんなに美味しい話しばかりはないよ。パパだってミュージシャンなんだからさ。自分で作ろうと思えば作れるし。それよりも、今、仕事が欲しいならば、堅実に稼ぐのがいいんじゃないの?」
「たとえば?」
「トイレ掃除だな。パパが今、君に与えられる仕事があるとしたら」
「・・・」
うちはトイレが二つあり、息子はお客さん用のトイレ(そこにはシャワールームが付帯している)を普段使っている。
ロックダウンだからお客さんなどは来ない。
ほぼ息子が独占で使っているので、とにかく汚いのだ。
ここを掃除させて、それがどんなに大変かを知ってもらうことは大事かな、と思った。
「ちょっと、来て」
ぼくは息子をトイレに連れて行った。
そこには小さな洗面台、シャワールーム、トイレ、そしてちょっとした物置のようなスペースがある。
まず、便器の周辺を指さした。
「こことか、汚いから、まずここは除菌シートなどできれいになるまでふきふきする」
「うえーーーー」



「うえーじゃないよ。パパがいつも這いつくばってやってるんだ。便器の中ね、こういうところの内側とかもバクテリアが繁殖するから、シートで消毒をする」
「うえーーーー」
「うえーじゃないよ。洗剤スプレーがあるから、スポンジを使って、それで水垢とか油汚れとかカルキの汚れとかをごしごし」
「うえーーーーーーーー」
「うえーじゃないってんだよ。パパがいつもやってるんだ!それが終わったら、シャワー室のタイルの目地とか、カビてるところが上の方にあるじゃん。脚立を使って掃除する。床もここね、排水溝、見て見ろよ、髪の毛とか溜まるから、これも手で取ってごみ箱に捨てて、そのあと、排水溝用の薬があるから、ぶっこんで、水を流しておく」
「パパ、無理だ」
「あと、洗面台もきれいに拭いてピカピカにしないとだめだ。床もふいて、壁も磨いて、シャワールームの扉とか、シャワーも分解してきれいにする必要があるし、パパがチェックして問題ないとわかったら、10ユーロあげるよ」
「10ユーロ。少なくない?」
「何言ってんだよ。トイレ掃除すれば10ユーロ、しなければゼロだ」
「ちょっと考えていいかな」
「いいよ。でも、他に君に与えられる仕事はないから、よく考えて、また出直しておいで」
いひひ、とぼくは思った。
いつも、息子には生意気なことを言われ、そのたび、かっちーーーーん、してきた父ちゃん。今日は心地よい。そして、お金を稼ぐことの大変さを教えられるチャンスでもあるのだ。



午後、夕食の買い物に出た。
いつも物乞いのおじいさんがいる場所に、今日は若い青年が座っていた。
移動民族、ロマ人の若者だ。
最近、青少年の物乞いの子が増えた。心が痛む。
でも、彼らには組織があり、ボスがいて、縄張りがあり、ルールがある。
フランスには移動民族を排除しないという人権のルールがあり、それも一因となり、犯罪がおこるケースもあるし、そのルールのおかげで、彼らの人権は守られている。
ちょっと複雑な問題なので、ぼくがここで簡単に解説は出来ないけど、いつもいるおじいさんもその組織の一員であり、今日、その場所に座らされている子も、その一員なのだ。
「ボンジュール、ムッシュ。パンを買うお金をください」
通り過ぎる時、青年が言った。
ぼくは毎回、おじいさんに少しお金を置いていく。
この子におじいさんに渡す分を渡したい。ところが、運悪く小銭がなかった。
青年はぼくを見上げている。
「ごめん。今は小銭がないよ。買い物が終わったら・・・」
そう言い残して、ぼくは急いで買い物に向かった。
ところが、戻ってみると、その子はもういなかった。
前にも同じようなことがあったけど、何か、試されているような、どこからか見られているような気持ちになった。ぼくは、嘆息をこぼした。
家に戻ると、息子がやって来て、
「やらせて、トイレ掃除」
と言った。



滞仏日記「お金がない、何か仕事ください、と息子が言った」

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