JINSEI STORIES
滞仏日記「愛とは何かと息子に問われ、愛と恋の違いをレクシャーした父の巻」 Posted on 2021/04/16 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、謎の頭痛の正体がいつもの「突発性難聴」だとわかった。
というのはだいたい頭痛の後、めまいと片方の耳が聞こえなくなるからだ。
前回、この症状が出たのは2年くらい前だろうか?
お医者さんに言われ、ステロイド剤を飲んだら、あっという間に治った。
突発性難聴の原因はいまだ不明なのだそうだ。
ストレスじゃないか、と知人の医者が言った。今回もまったく同じ症状だったので、一錠飲んだら、耳鳴りやめまいが消えた。
でも、原因がわからないというのが、不気味だ。
息子曰く、働きすぎ、とのことだけど、動いてないと死んじゃう、回遊魚ちゃんなので、あかんね。
で、今日はさすがに走るのはやめて、一日、大好きなキッチンにこもった。
NHKの撮影のことも、中止になったオーチャードホールのライブのことも、膨大な締め切りについても、ちょっと忘れてずっとキッチンで大好きな料理をした。好きな音楽をかけながら、昼はピザを作った。
冷凍で済ませようと思ったのだけど、美味しいのが食べたかったから、パン焼き機を引っ張り出して、ちょちょいのちょい。
美味しそうでしょ?
こちらは、シポラータとトマトとバジルのピザであーる。
※芸術の域と自画自賛のピザ
食器の片づけを息子が手伝ってくれた。
「ねぇ、日本語の愛と恋の違いってなに?」
いきなりド直球の質問をされたので、実はその時、その瞬間、ぼくはお皿を食洗器にいれかけたところだったので、つまり背後からこの直球を受け止める格好となった。
「・・・愛と恋、なんだよ、急に君!」
思わず、高田純次さんみたいな顔で、目をひん剥いて、息子を振り返ってしまった。
息子はちょっと気恥ずかしい話題になると、必ずフランス語で話してくる。
でも、ぼくは日本語を押し通す。
面白い親子である。
「だって、フランス語に、恋って単語ないから」
「ああ、そういうことか、ああ、それね、ふんふん。恋と愛の違いね、なるほど」
高田純次さん、ごめんなさい。でも、高田さんみたいな顔の父ちゃんになっていた。
「確かに、フランス語にはアムールしかないからな。でも、日本には愛と恋とがある。使い分けている。恋というのは一目ぼれとか、ヤングラブのような、まさに君が今しているような誰かを好きで好きでしょうがなくなったときに起きる、つまり自分を失くしやすい状態のことであり、そうだ、とにかく、落ちるものだ」
「落ちる?」
「フォーリンラブ・ウイズ・ユーっていうだろ?」
高田純次さん顔で言ってやった。鼻の穴が開いていた、と思う・・・。えへへ。
「ああ。なるほど、じゃあ、愛は?」
「愛というのはそういうものを全部経験して、落ちまくった後に、もうこれ以上落ちるところがないところで、ふんばり、立ち上がってだな、もう落ちることがないからこその揺るぎない状態のことを言う。パパにとって、愛は無償の愛のことを指す」
「かっこいいね」
「ふふ、今頃わかったか、パパはずっとかっこいいんだよ」
「じゃあ、なんで、離婚したの?」
ええええええ、そこかい~?
一瞬、真空からの、
かっちーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。
突発性難聴が、あああああ、み、耳が聞こえない。
「なんか言ったか? おーい」
ほんとうに、聞こえなくなった。
「だから、なんでかって」
ぼくは耳の穴に指を入れて、頭の中の空気を入れ替えるふりをしてから、
「愛が負けたんだな」
と言ってやった。
すると、息子は妙に納得をして、なるほど、いい勉強になりました、と言い残して、キッチンから出ていった。
やれやれ。
ぼくはステロイド剤をもう一錠飲んでおくべきか、どうか、で悩んだのだった。
※百均で買った揚げ物容器
※この孤独感、最高
午後、ぼくはコロッケの材料を買いに外出した。快晴だった。
行きつけのタオちゃんの店に行き、コロッケのパン粉(日本製)、卵、紫玉ねぎ、生姜、にんにく、牛のひき肉、中華麺、など買った。
ECHOESの「愛をください」を歌いながら、家路についた。
その間、ずっとぼくは愛について考えていた。
恋が落ちるものだとすると、愛は上昇するものだろうか? いいや、そうじゃない。
愛は、今のぼくが思う愛は、きっと見返りを求めるようなものじゃない、と思った。
愛が勝つとか愛が負けた、とかそういうものじゃないのだ。
駆け引きとかのない、損得のない、そういう考えさえもないものだろうな、思う。
しかし、愛はそこかしこにあるものだ、と最近、気が付いた。
コロッケを作ればそれがわかる・・・。
コロッケには無償の愛が詰まっている。
あれはもう「美味しい」で家族を喜ばせたいという作り手の気持ちだけがスパイスの料理なのだ。
ぼくはコロッケを作る時、家族のことを考えている。
ジャガイモを茹で、つぶし、炒めたひき肉や玉ねぎとあえて、握って、手の中で大事に大事にハートを作るように形成し、粉をたたき、卵をくぐらせ、パン粉を付けてあげ焼きにするのだけど、その一つ一つの行程の中に、美味しくなれよ、という思いがたくさん詰まった感動の家族料理なのだ。
揚げたてを、ホクホク、しながら食べる時の幸せを「家族愛」と呼んでもいい。
ぼくは泣きながらコロッケを作った日があった。
ぼくは笑いながらコロッケを作った日もあった。
ぼくは心配しながらコロッケを作った日があった。
いつも、家族のことを思って、作り続けてきたのがコロッケだった。
息子が今もそれを食べている。そして、美味しい、と言ってくれる。
涙が出そうになる。
でも、それを必死に堪え、父ちゃんは笑顔を浮かべるのである。
「いいか、いつか、君が父親になった時、愛と恋で悩むことがあったら、とにかく、コロッケを作ってごらん。家族がその揚げたてのコロッケを食べる姿を見て、何ものにも変えられない幸せを感じるなら、それが愛なんだよ」