JINSEI STORIES
滞仏日記「ついに田舎のアパルトマンへと引っ越し。着いたら仰天の巻」 Posted on 2021/04/01 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、朝、荷物を車に積んで田舎に向かった。
田舎の家の工事の最終段階で、ガスや水道などの検査にどうしても立ち会わないとならないことになった。
そこで、地元の業者が発行した呼び出し状と外出許可証、ついでに自分の家であることを証明する書類などをもって、パリ首都圏を出ることになる。
「ロックダウンなのに? パリから出れるの? 警察に叱られない?」
「ちゃんと工事責任者が発行したコンボシヨン(呼び出し状)があるし。パパは仕事の場合、個人営業主だから外出許可書を発行できるんだよ」
「なんの仕事?」
「地球カレッジだよ。ほら、書類、作った。手作り」
息子はジェロームのサインをじっと見つめて、ふーん、と唸った。
「パパは個人営業者なの?」
「ニューメロ・ド・シレンという労働者番号をフランスから与えられていて、この国で仕事ができるんだ。どうだ、すげーだろ」
息子が肩をすくめた。
「食べものは冷蔵庫に詰め込んでおいた。何か緊急事態があればすぐに帰ってくる」
「すぐに帰れるの?」
「帰れるよ。パリに息子がいるといえば、警察は、どうぞ、と言ってくれる」
ということでぼくは大手を振って出かけたのだけど、拍子抜けするくらい、高速道路は車がたくさん走っていた。おまけに、あれだけたくさんの書類を用意したというのにパリ首都圏からスルーで出ることが出来たのだ。警察の検問は一切なかった。ただ、途中で反対車線で大事故があり、その影響で渋滞が起きていた。ぼくの横を消防車が追い抜いていった。道で車が炎上していた。黒煙が空を隠していた。なんか、不吉な感じがする、…
事故に巻き込まれたこともあり、田舎についたのは夕方であった。
とりあえず、給湯器がまだついてないということなので、数千人の人口がある隣町の小さなホテルに部屋を借りた。
荷物を置いてから、ジェロジェロに連絡をし、まずガス会社に給湯器を一緒にピックアップに行った。ガス工事の責任者と打ち合わせをし、そのあと、ジェロジェロと一緒に、ぼくのアパルトマンがある山と海の間にある村の新しい新居へと向かった。
ところがである。「出来たから、チェックしてほしい」と言われ、「出来れば小切手も持ってきて最終の支払いをしてほしい」と言われていたにも関わらず、着いたら、まだ完全に出来ていなかった。
キッチンは一応組み立てられていたけれど、カウンターの下の板などもなく、スケルトンの状態だった。さびれた浜辺の客のいないレストランみたいな、がらーん…
キッチンの扉には把手もついていないし、食洗器の扉は不備があるのか開かない。開かない食洗器で何を洗うんだ! 何かイメージしていたものとは全然違うのである。
どーん、と落ち込む父ちゃんをよそに、なぜか一人盛り上がっているジェロジェロ。
「どうです? すごいでしょ?」
と自慢をするので、
「え? いや、なんか、イメージと違うし、これ、まだ出来てないよね」
と暗い感じで言ったら、暗さがうつって、気まずい感じになった。
「カウンターのアカシアの板は、どうなるの? このまま? 傷もあるし、切りっぱなしだし、角がギザギザじゃん」
「これからやすりをかけて、ニスを塗ります」
「ちょっと、ここの壁、なんかぶつけた痕がある」
「あとで修繕します」
ぼくがうつむき黙っていると、
「気に入りませんか?」
とジェロジェロが言った。
「いや、日曜日にここから日本に向けてオンラインの配信をやるんだよね。自慢したかった」
「自慢しましょう」
「でも、キッチン、出来てないし」
「え??? 必ず完成させます」
「出来るの? これじゃ小切手切れないよ」
「ムッシュ、ぼくは必ず、やります。日本の皆さんに納得してもらう出来栄えにします」
「OK、ジェローム、信じるよ」
と、ここまでで時間切れとなり、解散となった。
外出禁止時間が迫っていたからである。
ぼくは車に乗り、田舎道を走って、となり町の一軒しかないホテルへと戻ることになる。
その町に一軒しかないスーパーで安物の泡(カヴァ)とシーザーサラダとパンを買って、ホテルに入った。
この日記はいま、ホテルのベッドの上で書いている。
自慢のキッチンを皆さんにお見せしたいと思ってウキウキしていたのだけど、そこまで素晴らしいキッチンじゃない、ということを書かなければならないのはあまりに残念過ぎる。
いや、見る人によっては、いいね、とお世辞を言ってくれるかもしれないけど、凄いキッチンじゃない、ことはわかってしまった、…
やはり、都会じゃないので、限界があるのだろうか。
自慢のキッチンを、どうだー、と皆さんにみせびらかしたい、と思っていたので、かなりがっかり、というのが今現在の正直な気持ちであーる。
しかし、人生なんて、そんなものかもしれないな、と諦めに入っている。
ふふふ、とニヒルに笑って、エディット・ピアフを口ずさんだ。バラ色の人生、…
いっそ、パリに帰って、パリから配信をしたらいいかも、とやけ気味になっているのだけど、そういうわけにもいかないから、明日は朝から掃除をして、少しは見栄えがよくなるように、ジェロームとやれるべきことをやるしかない。
というわけで、これからやけ酒の父ちゃんである。
大丈夫、飲み過ぎないので、ご安心ください。
田舎の美しい星空を眺めて、まずはこの気持ちを落ち着かせよう、…