JINSEI STORIES
滞仏日記「謎の電話がかかってきた」 Posted on 2021/03/31 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、相変わらず息子の部屋からは可愛い女の子の声が聞こえてくる。ここには春がある。世界がこんなに大変だというのに実に微笑ましい。
ぼくには春が来るのだろうか、と窓辺でコーヒーをすすっていたら、携帯が鳴った。
見覚えのない番号である。
「あろー」
英語のHelloは仏語で
「あろー」
になる。
しーん。
いたずらかいな、と思っていると、
「ボンジュール。ムッシュ、ツジー?」
と女性の声。
「ういー」
と低い声で窓外の輝く世界を眺めながら言った。
すると電話が切れた。切れた!
つー、つー、つー、
「え?」
暫く携帯を眺めて、悩んだ。
この国では何かの調査会社がやたらワンギリの電話をかけてくるのだが、この人は、ツジー、とぼくの名を呼んだ。
ということは調査会社のワンギリ電話ではない。
数分、警戒して様子を見たが、かかって来る気配がないので、ぼくは席を立ち、キッチンへと移動した。
昼めしを作らないとならない。冷蔵庫をあけ、食材をチェックした。
何を作ろうか思案していると、再び背後で携帯が鳴った。
ぼくの眉間に皺が集まる。でも、出ないわけにもいかない。
「あろー?」
ちょっと怖い感じで、言った。
しーん。
そして、切れた。う、怪しい・・・
なんなんだよ、てめー、と思った。
相手が女性であること、多分、ちょっと若い、20代くらいの女性だと思う。しかし、若い女性に心当たりなどない。
暫く電話を眺めていたが、うんともすんとも言わなかった。
ふと、思い出したことがある。ぼくが離婚して、息子と二人きりでの生活がスタートした直後のこと。
玄関の郵便受けに日本の宗教団体のパンフレットと日本語のお手紙が入っていた。丁寧なキレイな文字であった。
文面は忘れたけれど、困ったことがあったら、お力になりたい、というような気遣い。
どうしてここに住んでいることがわかったのだろう、と思った。
そこは1年弱しか暮らしていないアパルトマンだった。
もしかすると、心配で差し伸べた優しさからの勧誘だったのかもしれないが、ちょっと混乱した。
ぼくには余裕がなかった。
それに、郵便受けの手前には大きな扉があり、暗証番号がないと入れない。どうやって、ポストに手紙をいれたのか・・・。
その翌々月にぼくは引っ越すことになる。
そういえば、引っ越した先のアパルトマンでくつろいでいたら、週刊文春の記者さんから電話があり、離婚の真相について質問されたことがあった。
週刊誌の記事に『記者が本人の携帯に電話をかけたが、回答は得られなかった』というようなコメントが載るけれど、あれ、だった。
あれは本当にやっているのである。
「すいません、どうやって電話番号調べたんですか?」
とぼくが訊くと、記者さん、
「イエローページに載ってますよ。辻さん、消した方がよくないですか?」
と言われ、がっびーーーーん、となった。
慌てて、関係各所の登録住所を全部消した。
でも、文春の記者さんはイエローページでも見てみるか、載ってるかもしれないしな、と思って半信半疑で調べたら、電話番号があり、かけたら、ぼくが出た、ということなのだろうか。
あ、ということは日本の宗教団体の人も、イエローページで調べてやってきたのか、なるほど、ぼくはなんて、とんまなんだろう。
ぼくが作ったのは、中華生麺をサッと茹で、お酢とかごま油とかそばつゆなどを和えて作った混ぜ麺と五香スパイスで炊いた肉野菜炒めである。
二人で食事をしていると、三度、電話が鳴った。
ギクッとした。出るか出ないか悩んでいると息子が、
「出ないの?」
と言った。
そこで、これまでのことを説明した。その間に電話は切れた。
「怪しいね。フランス人?」
「うん、フランス人なんだよ」
再び電話が鳴った。息子が、顎で、出たら、と刑事みたいにやった。
「あろー?」
シーン。
「あろー?」
ちょっと怖い感じで言った。
「いたずらなら、やめなさい」
と仏語で言ってやったら、
「ボンジュール、ムッシュ」
と女性が言った。
「どなた?」
シーン。
息子と目が合った。息子が手を伸ばしてきた。自分が対応する、という頼もしい助っ人。ぼくのたどたどしいフランス語より、的確だからだ。
「もしもし、ぼくは辻の息子だけど、あなたはだれ?」
返事がない。
「もしもし、こういう電話はあまりよくないよ。みんな驚くから、何かご事情があるなら、ぼくが聞きます。パパは仏語があまり得意じゃありませんからね」
ぎゃふん。一言よけない奴である。
何か女性が話しだしたようであった。最初は眉間にたて皺を浮かべていた息子だが、次第にそれが緩んで、最後は柔らかい表情になり、ぼくを見た。
「パパの熱心な読者みたいだよ」
え、そうなんだ。
「だから、緊張しているみたいだよ」
へー、と思った。
「新しい本が何年も出てないけど、次のはいつ出るのか、知りたいみたいだけど、なんて言う?」
「残念ながら、コロナで一つ出版の企画が立ち消えになったので、今は難しい、と伝えといて」
実は、「オキーフの恋人、オズワルドの追憶」の翻訳が始まっていたのだけど、コロナ禍で出版不況になりその企画が本当に残念なことにとん挫した。
「あと、なんで、ここの電話番号を知ったのか、聞けいてくれる?」
と息子に言った。息子が女性に質問をした。
「出版社が教えてくれたんだって」
あんだってぇーーーーーー。
日本ではありえないことだけど、この国では結構こういうことが起こる。
いちいち怒ってもしょうがないのと、とりあえず、謎の電話の素性が分かったのでぼくは安堵した。
「こういう時代だけど、希望を捨てないで、と伝えといてくれ。ぼくは、書き続けるから、いつかまた読める時が来るでしょう、と言っといてくれ」
息子が頷き、相手に丁寧にそのメッセージを伝えた。