JINSEI STORIES
リサイクル退屈日記「家事ができないぼくに、息子が言った泣ける言葉」 Posted on 2023/02/25 辻 仁成 作家 パリ
※ この日記は2年前、2021年の2月に書かれたものである。息子の言葉が泣けます。
某月某日、定期的にやってくる家事から逃げたくなる病、昨日くらいからひどくなっている。
昨日は昼は知り合いの中華レストランで、夜は知り合いの中国人がやっている焼き鳥屋ですませた。
掃除も洗濯もやらなかった。
シングルファザーになって一つ気が付いたことは主夫には土日もないということである。
育てないとならない家族がいる限り、ご飯にしても家事にしても全くやらないということはできない。
家事鬱になっても、何かはしないとならないのが主夫の辛いところだ。
なので、昨日はベッドからSMSで息子にいろいろと指示を出した。
「悪いけど、パパは具合が悪い。部屋の換気をやってくれ」
言ったことはやってくれるのでちょっとは助かる。
「12時にメイライの店に餃子と焼きそばをとりにいってくれ。財布はパパの鞄の中」
「洗濯が終わったみたいだ。ピーピーうるさいから止めてくれ」
「サロンの植物に水をやってくれ」
「悪いけど、水をいっぱいコップにいれてもってきてくれ」
「すまないが、チョコレートが食べたい。レトロワショコラのチョコが食堂のテーブルの上にあるから届けてくれ」
「トイレ掃除やっとけ」
「アマゾンが来るからブザーがなったら出て、荷物を下まで取りに行ってくれ。上まではあがってこないから、玄関の内側に置いとくように言ってとりにいく、わかった?」
「角のアラブ系の食料品店は今日も営業しているから、悪いけど、ペリエ買ってきてくれ。ついでに好きなお菓子もどうぞ」
「19時にワンさんの奥さんがお弁当を届けに来るからブザーが鳴ったら支払いをしといてくれ。チップに2ユーロ渡してくれ。ちゃんとお礼も言えよ」
「パパは動けないから、灯りを消して、戸締り確かめて、寝てくれ。おやすみ」
ぼくのこの家事鬱はだいたい、月に一度やってくる。
周期があって、たぶん、ぼくのホルモンとかに関係があるかもしれない。
とにかく、一日で終わる時もあるけれど、数日続く時もある。精神的なもので、どーん、と落ちていく。
息子が小学生だったころは、それでもぼくがやらないとならないことが多かったので、もっときつかった。
でも、息子も高校生になった。ぼくのかわりに動いてくれるようになった。ありがたい。
実は、ぼくの家が入った建物は周囲の建物とのあいだにフランス風の中庭がある。
狭い中庭だけど、フランスの家はだいたい中庭がある。
うちは食堂とキッチンと廊下から中庭を覗くことが出来る。
その中庭に夜中でも灯りがついている部屋がある。
窓辺に褐色の肌の男性がいつも立つ。彼の名前は誰も知らない。
幽霊ではなく実在する人間なのだけど、彼に会ったことがある人はこの辺ではいない。
隣の建物の管理人のドラガーさんが管理人を始めるようになった30年前から今日までの間に2,3度見かけたことがある、という。
その人は多分、ぼくと同じ年齢くらいだろう。
彼は白人のお父さんと二人暮らしで、こちらのお父さんとは時々、通りですれ違う。
街のみんなが噂しているのでどういう人物かぼくは知っている。
元外交官で90歳、アフリカに赴任していた時に、出来た子を引き取り、フランスに戻ってきた。お母さんはフランスには来なかった。
その子は学校でいじめにあいひきこもるようになった。
それから半世紀、彼は部屋から出ない。
20年前に一度、中庭のベンチに座っていたことがあった。
ドラガーはその時に彼を目撃している。
でも、やはり長く続かず、またひきこもった。
お父さんは90歳の今も、ボンマルシェデパートまで食品を毎日買いに行く。
でも、90歳なのだ。
息子は何もしない。あれ買ってきて、と注文をするだけ。
その話しをきいたぼくは胸が痛んだ。でも、どうすることもできない。
息子にそのことを話したことがある。ぼくが家事鬱だった時に。
「パパ、辛い時はぼくがかわりに買い物に行くからね。人生は長いんだ。たまには休んだらいいよ」
こう言った。