JINSEI STORIES
滞仏日記「息子の友人のお母さんから誘われ、悩んでいる父ちゃん」 Posted on 2021/03/17 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、朝、寝ていたら息子がドアをノックして、
「アントワンヌ、考えといて」
と謎の日本語を残して、登校した。
「アントワンヌ…」
と呟きながら起きたぼく、夢の中でアントワンヌ君と瀬戸内寂聴先生が仲良く寂庵の縁側に並んで座っている不思議な夢を反芻した。
先生がぼくに気が付き、
「あら、つじさん、あなた最近、ぜんぜん、連絡ないのね。どうしてるの?」
と言いながらぼくをふりかえり、ニコっと笑った。
あ、やばい、と思って起きたら、やっぱり、夢だった。
最近、瀬戸内先生の夢をよく見るのでずっと気になっていた。
なので、これは電話をしないとだめだ、と思い、慌てて電話をかけた。
先生は、昔から、ぼくの夢にもく登場してくる。だいたい、そういう時はいつも何か意味がある。それがわかるし、ここのところ確かにご無沙汰していた。
でも、2度かけたけど留守番電話になるので、
「先生、辻です。ずっと気になっていたんですけど、ごめんなさい。なんかあるのかな。寂庵にかけてみますが、元気ですか? 心配だから、また電話します」
と言い残した。
一応寂庵にもかけたけど、機械の声が、おかけ直しください、と告げた。
ランチの準備をしていると、息子から携帯にメッセージが入った。
「パパ、アントワンヌからのメッセージ、転送しているでしょ? 読める? 簡単なフランス語だから、読んで、返事頂戴」
ぼくはワッツアップ(仏版LINE)のメッセージを遡った。お、あった。
『やあ、3月21日の日曜日、君のパパと君、暇じゃないかな? お昼に、ママの家でランチしないかな?』
これは、先々週に貰ったものだった。さっと目を通したけど、アントワンヌのお母さんがどの人だったのか、思い出せず、悩んでいた。
そしたら、先週の金曜日に、またメッセージがアントワンヌから届いたというのだ。
『でさ、君たち3月21日昼ごはんたべに来れるの??』
という催促のメッセージであった。
アントワンヌのお母さんって、あゝ、思い出した。瀬戸内先生の若い頃にちょっと似ている人じゃなかったかな? いや、マジで。
昼少し前に、息子が帰ってきたので、聞いてみた。
「アントワンヌのお母さんって、どんな人だったっけ? アジア系だよね?」
「うん。そうだよ」
「パパ、一度、挨拶されたことがあったと思うけど、たしか、4年くらい前に」
「そうかもね」
「なんで、ランチに招いてくれるの?」
「知らない。あ、でも、パパの小説を結構読んでるみたいだよ」
「そうなんだ」
「で、どうするの? 返事しないと失礼だよ」
「でもさ、知らない人だし、いいのかな? オリジンは何人なの?」
「わからない。どこかな? そんなの訊けないじゃん。失礼だし」
「だよね? あ、でも、ママの家ってことは、もしかして離婚されてるってこと?」
「かな、それも、普通、聞けないでしょ?」
「なんにも知らない人の家に、お前行ける?」
「ぼくはアントワンヌと仲良しだから行きたいけど、あとはパパ次第じゃない。ママ友たくさんいるじゃん。結構、ブリブリ系の」
ぼくはアントワンヌのお母さんを思い出した。白人社会の中では珍しいアジア系の、どこか日本的な佇まいの、目立たない、懐かしい感じのお母さんだった。
そういえば、PTAの会合の時に廊下で話しかけられたアジア系の女性がいた。
最初は日本の人かな、と思って身構えていたけど、フランス生まれのアジア系フランス人だった。そういう人は多い。
アレクサンドルのお母さんのリサもベトナム系のフランス人だ。
アントワンヌのお父さんがフランス人なのだろう。アントワンヌの顔は、アジアと西洋が融和したような穏やかな顔をしている。これが、とってもいい子なのだ。
確か、その時も、本の話しをふられたような気がする。読書家なんだな、と思ったけど、なぜ、ぼくの本に興味を持ってくれたのか、分からなかった。
同じアジア系だからだろうか?
「どうするの? パパ」
「パパ、初めての人と話せるかな? ちょっと気が重いんだけど、でも、話しが通じなくても、行ってみたい気もする」
「どっちでもいいけど、今日中に返事しないと。5日後のことだし、向こうも準備とかあるでしょ?」
実は、リサとロベルトの家にはよく招かれるのだけど、あと、ぼくがママ友を招くことはあるのだけど、付き合いもない母子に招かれるのは初めてだし、しかも、息子と招かれるのも、非常に珍しいことだった。
何せ、息子の仲良しの友達のお母さんの家というのが珍しい。
何事も経験だな、と思った。
「OK、行ってみよう」
ぼくは思い切って決断をした。すると息子が笑顔になった。
「わかった。喜ぶと思うよ」
ぼくたちは並んでお蕎麦をすすった。
息子は、蕎麦をすするときだけ、ずるずると音をたてて食べる。
そこに一人でも白人がいると音をたてるのをやめる。それはぼくも同じ。この習慣を西洋人に理解させるのは難しい。
だから、息子の心の中には蕎麦を介して日本がちゃんとあるのだ。
そう言えば、息子はある時、パパ、お蕎麦は音を立てて食べるのが正しい食べ方なんだよ、と言った。
「アントワンヌが、とっても興味を持っていた。お蕎麦に」
アントワンヌは小学生の頃から息子の大事な友人の一人だった。
彼のお母さんの名前をぼくは知らない。しかも彼女はぼくが親しいママ友のグループには属していない。
ぼくが親しいママ友たちはみんないわゆるぶりぶりのパリジェンヌという感じ。
ほぼ白人で、いい人たちだけど、外から見たらちょっとゴージャスすぎる連中で、鼻につくかも・・・。
アントワンヌのお母さんはそういうグループとは一線を画したところにいる奥ゆかしい女性だった。
きっと、これまでとは違う友だちが出来るのかもしれない。
お蕎麦とそばつゆのセットがあるから、持っていこう、と思った。