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滞仏日記「欧州の人たち、オリンピックはすでに、パリ大会に気持ちがむかってる?」 Posted on 2021/02/27 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、肩甲骨から肺、首にかけて、左側がズキッと痛む厳しい状況が続いていたので、知り合いの整形外科医、ドクター・フィリップに相談をしたら、ちょっとおいでよ、と言われ、彼のクリニックへと向かった。
その途中、ラジオで、「ジャポン」「オリンピック」「ワクチン」という言葉が飛び出してきたので、慌ててボリュームを上げると、結構、皮肉が売りのコメディアンたちが毒舌ぶっとばす、井戸端会議的なAMラジオ番組であった。
「日本ってさ、市民がワクチン打てるようになるの、オリンピックのあとらしいよ」
「マジか」
「やっぱ、日本政府は最初から諦めてたってことだよね? じゃなきゃ、オリンピックやるのわかってるんだから、延期になった時に、必死でワクチンかき集めてるはずだもんね。今頃、やっと医療従事者に打ち出したってよ、フランスも遅い遅いって言われてきたけど、日本よりは早かった」
「じゃあ、なんで、早々に中止にしないの? もう間に合わないんじゃない?」
「日本政府は、中国にオリンピックの座を譲りたくないんじゃないの?」
「マジか。でも、中国も人権問題抱えてるから、どうなるかねェ」
「そうなると、2024年のフランスが、コロナ収束後の最初のオリンピックってことになる?」



ハンドルを握りしめながら、悔しいけど、ワクチンが国民に行き届かない中での開催って、世界的にみたら、放棄しているとしか映らないかのかな、と思った。
イスラエルは人口の半分以上がワクチン接種終了しているが、いまだに毎日、数千人の感染者が出ている。
打ったからといって、即座に集団免疫が獲得できるわけじゃない、ということ。打っても、これだけの割合で罹り続ける可能性があるということだ。



滞仏日記「欧州の人たち、オリンピックはすでに、パリ大会に気持ちがむかってる?」

フランスは75歳以上の高齢者の方々はすでに25%が接種を済ませている。
イタリアは5%だが、日本はまだまだこれから。ラジオの司会者が言っていたように、やっと医療従事者が接種しはじめたレベル。
欧州でワクチン接種の状況を見てきている感じでは、遅い。それだけ、ワクチンに対して慎重なのは、ぼくはいいことだとは思うけど、…。
それでも、開催国日本の国民がワクチンで防御もしないで外国からの選手団などを受け入れるのは、感染が酷い欧州人には、ちょっと奇異に見えているかも。
ワクチンの接種状況を見て、日本はオリンピック放棄、という意見が他でも聞かれ始めているのは事実で、今後はこの話題が主流になるかもしれない。
昨日はNHK番組の撮影をしている最中にも、カメラマンのピエールに
「なんで日本はワクチンに慎重なの?」
と訊かれた。
正直、ぼくは答えられなかった。
「わからない」
「ツジはワクチン、打つ?」
「ぼくはもう打つ気になったよ。健康パスポートがまもなく導入されるし、打たなきゃ、移動できなくなるからね」
「だよね。君は打たなきゃ」
ピエールはそれ以上は言わなかったけど、でも、いろいろ不安だよね、とだけ付け足した。



ドクター・フィリップのクリニックについたのはいいのだけど、予約がいっぱいで、ぼくを見る時間がなくなっちゃったから、ちょっと外で待っといて、と言われた。へ?
待合室には大勢の高齢者の方々が順番を待っている。この人たちの4人に1人はすでにワクチンを接種済みなのだ。ぼくの家の下のおじいさんも打ったと喜んでいた。
ドクター・フィリップ、「休憩時間に外でちょっと見てあげるから」だって。外で? マジか?
30分くらい病院の前で突っ立っていたら、2月だというのに、Tシャツ姿のドクターが出てきた。
「すまん、すまん。せっかく来てもらったのに、こんな状況で」
先生、フェイスマスクとマスクなんですけど、ちょっとやばすぎ…。
「いやあ、ムッシュ・ツジ。ぼくね、昨日、ファイザーのワクチン打てたんだ。めっちゃラッキーだった。不安だったんだ、他のだったらどうしようって」
先生がいきなり、両手を広げて大喜びし始めたので、写真におさめておいた。

滞仏日記「欧州の人たち、オリンピックはすでに、パリ大会に気持ちがむかってる?」



ええええ、今、そういう話しになってるの?
「ファイザー以外はダメなんですか?」
「いや、僕は医者だから、ダメとは思わないよ。モデルナもいいよ。でも、ファイザーが僕の身体的には一番いいかな、と思ってたので、嬉しかった」
 めっちゃ露骨な喜びようで、ぼくは自分がどこのワクチンを打たれるかわからないから、逆に、不安になった。
「医療従事者だから許可が通って、希望通りのが打てた。アストラゼネカは若い人はいいね。英国では高く評価されてる。でも、ぼくは50代だからさ」
「フランスのお医者さんたちって、やっぱりここのワクチン打ちたいって希望とかあるんですか?」
ドクターはぼくの耳元で、
「やっぱり、それぞれ、好みはあるだろうね。各社、製造方法が違うし、治験もばらばらだから」
と微笑みながらつぶやいたのである。コワ。



「ごめん、ムッシュ、時間がないから、どこ? 痛いの?」
「え? あ、ここと、ここと、ここ」
ぼくは肩甲骨、肺、首の三か所を指で指示したら、先生、道の真ん中で、不意に、ぼくの背中に手を回し、整体? なんだろう、英国式らしいけど、骨を動かして、
「はい、じゃあ、様子みてね」
と言い残して、病院に戻って行った。
建物に入る前に、こちらを振り返り、
「日本は遅いね。ワクチンって、今、各社間に合わないから、期日通りにワクチンが入って来ないんだよ。だから、いろんな国がいろんな国のワクチンを認可しはじめている。安定した供給網が整うのは来年いっぱいかかるんじゃないかな? 全世界の人が接種して、集団免疫が出来るまでにはまだまだ遠い道のりだということだ。ムッシュも早めに打っといた方がいいよ」
と素早く言い残して去って行った。
ぼくは帰りの車の中で、自分の身体が前よりも楽に動くようになってることに気がついた。
あんな格好しているけど、実は、凄いドクターなのである。



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