JINSEI STORIES
退屈日記「今は懐かしいセント・パンクラス駅のピアノ。もう一度、弾きたい」 Posted on 2021/02/24 辻 仁成 作家 パリ
今から4年ほど前のこと。
まだ、新型コロナウイルスなんてものが存在しておらず、英国やフランス、そして世界が今のような酷い状態ではなかった、幸福な時代のお話である。
ロンドン出張が終わり、ぼくはユーロスターが乗り入れているセント・パンクラス駅に到着した。
2時間も早く着いたので、駅構内で時間を潰していた時のこと。
どこからか不意にピアノの音が聞こえてきたのだ。
おや、と思って音のする方を振り返ると、背広を着た男の人がピアノを弾いている…。
演奏はまあまあ上手だったけれど、プロじゃないのは一耳瞭然。
足元にビジネスバックが置いてあった。
ああ、勝手に弾いているのだな、と思った。
その人は一曲弾き終わると納得した顔で立ち上がり、足元の鞄を掴んで足早に改札口へと消えていったのである。
いいね、と思って、ぼくが微笑みながらそこを立ち去ろうとしていると、
あれ?
再び、ピアノの音が聞こえてきた。
慌てて振り返ると、今度は革ジャンを着た初老の男性が……。
ああ、もしかすると、このピアノは勝手に演奏をしていいピアノなのか。
ぼくはカメラを取り出し、ピアノを弾く男性をパシャリ。そこはユーロスターの到着口脇なのである。
周辺には名前の書かれたボードを持った送迎の人たちが立って、降りてくる乗客を待っている。
まもなく、パリからやって来た乗客たちでそこは溢れ返ったのであった。
その間、ピアノを弾く男の人は手を休めず、とっても下手な演奏を続けていた。失礼、とっても熱意のある演奏を繰り返していた。
幼稚園児が生まれて初めてピアノを弾いているような感じ……。失礼、幼稚園児が目の前のピアノに心を奪われている感じ、…。
あれ?
その初老の男性の後ろに何人かが並んでいる。
こんな下手な演奏に聴衆が? ? ?
いや、そうじゃない。
初老の男性がピアノから離れると、すぐ後ろにいた人が今度は、その椅子に座って演奏を始めたのである。
時間を持て余していたぼくは好奇心にそそのかされ、演奏を全て聞くことになった。
そして、ついに、誰もいなくなったのである。
見回すと、ぼく、ただ一人……。
いいのかな? いいよね?
ぼくは素早く、そこに行き、ピアノ椅子に腰を下ろすと、恐る恐る、鍵盤に触れてみるのだった。
ピアノの横を大勢の旅行者たちが過って行く。自動小銃を抱えた警察官もいた。テロの警戒だね。
結構、勇気がいるものである。でも、テロで分断された時代だからこそ、弾かなければならない、とぼくは思ったのである。
今だったら、テロよりも、コロナだろうけど、パンクラスの今がどんな状態か、わからない。
ユーロスターはきっと今も、英国とフランスのあいだを、走っているのだろうけど、わからない。
そして、果たして、4年前のピアノはまだあるのだろうか?
まだあるとは思うけど、わからない。
とても、海外に出て行けるような状況じゃないからだ。
とても、感染拡大が続く英国に行けるような状態じゃないからである。
大学時代に作った未発表の曲を演奏してみた。
そして、気が付けば口ずさんでいた。
思い出のメロディ、…。
終わると、ささやかな拍手の音が・・・
振り返ると、大きな鞄を抱えた家族連れ。拍手をしたのはそこの幼い子供たちであった。
セント・パンクラス駅のピアノ。
このような喧しい時代、でも、きっと、人々は音楽で繋がることができるはず。
いつか、また、ロンドンに遊びに行きたい。
わずか、2時間の距離なのに、今はとっても遠い。
でも、ぼくは世界が再び、その扉を開くことを知っている。人類は決して屈しない。
いつか、あのパンクラス駅のピアノが奏でる音を楽しみにしている。
ぼくらは再び繋がることが出来るはずだから。
あの時代に戻りたい。
いいや、もっと素敵な時代を築きたい。
そして、もう一度、あのピアノを弾くことを夢見ている。
今日の後始末。
「演奏が終わったら、ちゃんと蓋を閉めてください。次の人が蓋を開ける喜びを奪ってはいけません」