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滞仏日記「忠犬ハチ公前じゃなく、考える人の前で待ち合わせた」 Posted on 2021/02/22 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、息子が彼女とモンマルトルの丘に出かけたので、不意に一人になった父ちゃん。パリは快晴で超天気なのである。
長く雨や雪が続いたので、こんなに春なのに、じっとしているのは、辛い。
昼食後、コーヒーを飲んで、室内に差し込む春の明るい日差しをぼんやり眺めていたら、不意に人生を無駄にしているような悲しい気持ちになった。
「遊びにいきたいなぁ。ぼくもデートとかしたいなぁ」
と呟いていたら、聞こえたのか、ママ友のレイラから、ヤッホー、とメッセージが入った。
「何してるのー?」
「いやぁ、なんか、晴れてるから外に出たいけど、出かける目的がないから、悩んでた。レイラは?」
「子供たちと夫は別荘に。私はちょっと仕事があるから週明けに合流予定で、今日は暇ですよ。散歩でもする?」
お、その手があったか!

滞仏日記「忠犬ハチ公前じゃなく、考える人の前で待ち合わせた」



ということで、ぼくにも春が訪れた。といっても、人妻だから、ムードはなし。
しかも、レイラはぼくよりもうんと背が高い。北欧出身なのだ。ハイヒールとか履かれると、見下ろされてしまう。でも、めっちゃかっこいい。
ご主人のシルバンは政治家で、こっちも仲良し。彼はレイラよりもさらに背が高い。2メートルくらいある。
小さいぼくはちょっと恥ずかしいのだけど、そこは日本男児、勝海舟になったつもりで、胸張って、頑張る。応援よろしく。
ということで、今日はフランスのマダムに負けないために、父ちゃん、首にスカーフを巻いた。ネクタイはしないけど、春はシルクのスカーフを巻いて気分を変える。えへん。
ちょっとキザな感じが出る、春の、父ちゃんのコーデであーる。
「レイラ、どこで待ち合わせる?」
「ロダン美術館の庭園が6ユーロで入れるから、考える人の前で、待ち合わせよう」

滞仏日記「忠犬ハチ公前じゃなく、考える人の前で待ち合わせた」



考える人の前で待ちあわせって、めっちゃおしゃれだ。今まで気づかなかった。
パリの美術館、まだどこも閉鎖中だが、ロダン美術館だけは庭園が開放されている。
なぜか、ロダンの彫刻が野ざらしで展示されているのだから、フランスの芸術に対する考え方の寛大さを感じる。
フランス以外だったら、物凄い警備の元、囲いの中での展示だろうに、…。

滞仏日記「忠犬ハチ公前じゃなく、考える人の前で待ち合わせた」



ところがレイラとは門のところでばったり会ってしまった。二人で手の消毒をして、中に入った。
他に行くところがないからか、物凄い人で、座って話せるような感じではない。
庭園の一番奥まで歩いてやっと木陰にベンチを見つけた。ぼくはハンカチでササっと、ベンチの埃を払い、日本紳士として恥ずかしくないように、どうぞ、とやった。
ぼくらは並んで腰かけ、庭園を歩く人々を眺めた。いい時間であった。
これが、人妻じゃなく、ガールフレンドだったら、どんなに幸せだろう、と想像し、一人で顔を赤らめてしまう…、還暦の父ちゃんであった。えへへ。
あれ? 還暦過ぎの、父ちゃんだったっけね。ま、いっかぁ。

滞仏日記「忠犬ハチ公前じゃなく、考える人の前で待ち合わせた」



滞仏日記「忠犬ハチ公前じゃなく、考える人の前で待ち合わせた」

地球カレッジ

「ひとなり。最近、どうなの?」
こういう言い方をするのがフランス人。クアドヌフ? なんかあった? みたいな。
「相変わらず。あ、でも、息子に恋人が出来た。あ、いっちゃいけなかったかな」
「聞いちゃった。へー、どんな子?」
「それがね、可愛い。珍しく写真見せてくれた」
「マジ? やるな~。アジアティック(アジア人)は、モテるからね」
「なんかね、あいつ、それを売りにしてる傾向がある」
ぼくらは笑いあった。風が抜けていく。ああ、外に出てよかった。生き返った。

「でも、幸せみたいで、帰ってくると毎日、ニヤニヤしてるんだよ」
「ひとなり、羨ましいんでしょ?」
「いや、別に。なんか、でも、自分が若かった頃のこと思い出す」
「君が照れてもしょうがないじゃない。うちの子なんかぜんぜん、女っ気なし。今時の子って、女性口説くのヘタなんだよね。女の子の方が強くて、そもそも近づけない」
あはは。ぼくらは笑いあった。再び、心地よい風が流れていった。

滞仏日記「忠犬ハチ公前じゃなく、考える人の前で待ち合わせた」



「レイラ。あの子はフランスで生きて行く。フランスの子と結婚するだろうし、そうなると、ハーフの子が生まれるかもしれないね。ぼくは自分がそういう子たちに、おじいちゃん、と言われることを想像さえしたことがなかった。でも、最近、夢でみる。自分の末裔がこの国で生きてゆく姿を。これは不思議なことだ」
遠くに、考える人が見えた。前のめりになって考えている。オーグスト、あんな格好で考える人間なんか、見たことないよ、ぼくは。
レイラは、口元を緩め、微笑んでいる。
「私の両親は北欧の出身だったから、ここで私が生まれた時、親戚はみんな北欧にいた。でも、今は、夫と結婚をし、子供たちがいて、親戚も増え、私はフランス人として生きることが出来ている。欧州って地続きだから、あまり、そういうことで悩んでいる人はいない。英国人も、ギリシャ人も、イタリア人も、ルーマニア人も、混ざっていく。もちろん、混ざらない人たちもいるけど、全部ひっくるめてヨーロピアンなのよ。ここで生まれた君の子もそこに加わることになる。彼はここで教育を受けた。彼の第一言語はフランス語だから。日本の心はあるけど、いい、ひとなり、彼はフランス人よ、すでに。あなたとは違う。彼の人生を欧州という地図から見てあげたらいいのよ」
再び、風が流れていった。心地よい風だった。モンマルトルにも同じ風が吹いているのだろうか? あの子がこんな時代に、それでも、幸せなら父は嬉しい。
「レイラ。考える人はいったい、何を考えてるんだろうね。ああやって、いつまでも」
「ひとなり、それはあなたが考えているようなことを考えているのよ。あの姿は人間そのもの。見えざる人間の苦悩をあらわしているのだから、…」

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