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滞仏日記「価値観を微調整していく日々。アフターコロナを生き延びる方法」 Posted on 2021/02/02 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ぼくが今、住んでいる地区の路地に「貸します(a Louer)」の張り紙が日に日に増えてきて、それは正直恐ろしいくらい急速に増殖した。
この通りの半分ほどの地上階の物件からそれまでそこを使っていた店子が1月31日をもって不意に消えてしまったのを、今日、ぼくは目の当たりにした。
これは同時に、コロナウイルスの影響でフランスでの商売があちこちで成り立たなくなっていることを物語っている明らかな証拠であろう。
この感染症がこのまま収束できずに続いたなら、この通りは来年の今ごろどうなってしまうのだろうと思った。
というか、みんな、どこへ行っちゃったの? 
どこで何をしているのだろう? 

滞仏日記「価値観を微調整していく日々。アフターコロナを生き延びる方法」



滞仏日記「価値観を微調整していく日々。アフターコロナを生き延びる方法」

※これはフランスの引っ越し風景。荷物を最上階の窓から出しいれするのだけど、時々、積んだソファが落下しそうになったり、…

ぼくが田舎で暮らしたいのだ、と友人らに打ち明けていたら、自分の別荘を買ってもらえないか、という人が出てきた。
残念ながら、条件が折り合わずに、話しはまとまらなかったが、やっぱり経済不況のせいで、物件が動いている。
実は、そろそろここにしようかな、と思う物件を絞り込みつつある。
すでに二回ほど下見をした、小さなアパルトマンなのだけど、最初の内見の時は、違うな、と思った。
でも、ずっと心に引っかかっていて、二度目に訊ねた時には、後ろ髪を引かれた。
小さな天窓があって、家の中に階段があり、もともとは老夫婦が住んでいた。
老夫婦はもっと田舎、スペインとの国境の街に越しちゃうのだそうだ。
家に入ると、暗い。しかし、階段を登りきると、不意に視界が開ける。
古い建物の最上階の、いわゆる屋根裏部屋なのだが、360度の視界を手に入れることが出来る。
小高い丘の上にあって、海はちょっと離れているのだが、開いた窓から流れてくる微かな潮風が心地よい。
終の棲家になる?

滞仏日記「価値観を微調整していく日々。アフターコロナを生き延びる方法」



今、借りてる水漏れアパルトマンの半分くらいの広さだけど、十分である。
贅沢はしないし、値段も手ごろだし、交渉次第でぐんと今なら安くなりそうだし、買い手がいないのは、何より建物がぼくを待ってくれている証拠かな、と思った。
老夫婦が長く住んでいたので、今は、あまりに古びたボロボロのアパルトマンなのだけど、壁紙を全部張替え、床も新しくして、補強し、窓も取り換えて、キッチンも風呂も全部一から作り直してしまえば、自分の世界を全て注ぎ込むことのできるおしゃれな宿に生まれ変わるのじゃないか。
ちなみに、その建物自体は19世紀の建築物で、煉瓦と石を積み上げて作った古風な、あまりに古風な、しかし、外見は悪くない。
厳しい現実の中にあって、それは小さな夢をぼくに与えてくれるかもしれない。



「ここ、どう思う?」
と写真を息子に見せた。想像が出来ないみたいで、悪くないね、とだけ息子は言った。彼が住むわけじゃないから、興味がないのも、当然である。
「狭そうだから、ぼくのベッド、置けそうもないね」
「大丈夫、寝袋を買っとく」
ぼくらは笑いあった。
「そういえば、角のレストラン、日本人が経営していた店があったでしょ? 少し和食テイスト、あそこ、閉まっちゃったよ」
「マジか」
「a Louerの張り紙が出てた」

地球カレッジ

滞仏日記「価値観を微調整していく日々。アフターコロナを生き延びる方法」



生き方や、働き方、暮らし方や、付き合い方が、目まぐるしく変わる時代の端境期にぼくらは今、いるのだろう。
あらゆる業種の人がどうしていいのか分からず、必死でこれからを模索しているような状況下だ。
作家も、ミュージシャンも、映像作家も、演劇人も、…。
ぼくの場合は今から新しいことは出来ないけれど、死ぬまでこうやってコツコツ書いていくだけなんだけど、あ、もちろん、歌も歌い続けるさ、しかし、いったい、それはどこでか、ということになる。

滞仏日記「価値観を微調整していく日々。アフターコロナを生き延びる方法」



最近、電子書籍を利用して、自分の古い、絶版になっている作品を再び世に出そうかな、と考え始めた。
これまで一度も電子書籍を認めてこなかったのは、書店さんとの長い付き合いのせいもある。或いは、電子書籍に愛着を持てなかったからだ。
けれども、百冊以上の本を出版してきたけど、出版社は新しい本にしか興味を示さない。在庫を抱えたくないから、古い作品が絶版になっていく、…。
でも、そこには自分の代表作、愛着のある作品もある。
元の原稿に大幅に手を入れ、再編集をし、21世紀版として世に出せないか、と考えていたら、今まで毛嫌いしていた電子書籍という場所があることに今更ながら気がついた。
ここで、みんなに見捨てられた過去作を救っていこう、と思いついた。
そこには一つルールがあって、出版社から出ているものには手を付けない。
書店さんで買えるものは電子書籍にはしない。書店で購入出来なくなった思い出深い作品だけに対象を絞り、掘り起こしていく。
名付けて「絶版文庫」!

デザインストーリーズの読者さんは海外に住んでいる方も多い。
「なんで、電子書籍やらないのですか?」と言われ続けてきた。
絶版本なら、書店さんも許してくれるんじゃないか、…。
でも、要はアマゾンで自費出版みたいな感じでやることになるのだけど、自分一人でやってるのでこれがなかなか難しくて、作業も多く、今、研究中、…。
しかし、これまでの価値観を変える作業になるだろう。
この田舎のアパルトマンを購入出来たら、小さな小さな仕事場を作りたい。そこで、過去作を思う存分、リライトしてみたい。
ぼくは書くことが大好きだから、誰にも会わない丘の上の部屋で、昔の自分が書いた作品にもう一度息吹を与える仕事をしてみたい。
これからは、家内制手工業の時代に戻る。
こんな風に、価値観を微調整しながら、ぼくは毎日を生きている。

自分流×帝京大学