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滞仏日記「外出制限18時を過ぎても帰って来ない息子を心配する夜」 Posted on 2021/01/23 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、コロナのせいで、ちょっと心を病んだ。
愛着のあったセーター縮んでダメになったのがきっかけだけど、車の横っつらを大型トラックに当て逃げされ、その上、水漏れ相次ぐ仕事場で、工事業者が間違えて違う部屋を塗り直しだしたものだから、一気に鬱った父ちゃんであった。
「あの、その部屋、どこも水漏れてないけど、なんで関係ない柱にペンキを塗っちゃってるの?」
でも、大本の原因は間違いなく長引くコロナ、先行き不透明なコロナなのである。
変異ウイルスの出現がじわじわと世界に新たなダメージを与えつつある。
情報を収集すればするほど、危機感しか増さない。しかも、レストランは6月まで開かないかもしれないという新たな情報が囁かれはじめ、世界で毎日1万7千人とかが亡くなられ、毎日68万人が感染し、いっそう状況が厳しいというのに、日本のヤフーニュースを覗くと「オリンピックの議論」…。
正直、オリンピックなんて世界はもうアウトオブ眼中だし、日本だけが空くじを引いて、馬鹿をみそうなこの空気感が実に怖い…。
IOCなんてある瞬間に日本を見捨てるだろうな。世界で何が起きているかを見渡さないと、オリンピックは国内問題で終わらせられない大変な後遺症を日本に与えることになる。
多分、一気に政府は方向転換せざるを得ない日が来る。なぜその幻想ばかり追いかけ、なぜ世界全体で起こっていることを見ようとしないのだろう。
で、最後は誰が責任をとるのか? 森さん?  
木を見て森を見ず? 

滞仏日記「外出制限18時を過ぎても帰って来ない息子を心配する夜」



滞仏日記「外出制限18時を過ぎても帰って来ない息子を心配する夜」

実は「木を見て森を見ず」は日本で生まれた諺ではない。
これはもともと欧州に古くから存在していたフレーズで、たとえば、「木ばかり見ている者は結局、森を見ることが出来ない」という語源の産物。
仏語では、L’arbre cache souvent la forêt. となり、「木はしばしば、森を隠す」と訳される。つまり、木を見て森を見ず、だ。
要は、目の前のことにとらわれていると、物事を大局的に見ることができなくなりますよ、という意味である。
先人の言葉に耳を傾ける余裕がないことが、まず残念で仕方ない。
ぼくのような感染拡大地域で17歳の息子を育てているつまらない初老の男の戯言など、届かないかもしれないが、どなたか、政権の中枢にいる懸命な人に、日本を救う千里眼で、世界の森を眺めて頂きたい。
世界が今、どう動こうとしているのか、、



滞仏日記「外出制限18時を過ぎても帰って来ない息子を心配する夜」

夕食の準備をしていたが、窓外が暗いことに気がついた。
オーブンの時計を見たら、18時を過ぎている。え? 慌てて窓辺に走り、通りを見下ろした。
外出禁止が18時からなのに、まだ人が歩いている。
犬の散歩をしている人もいる。



スーパーや店舗の人は18時に店を閉めてから帰ることが出来る。だから、人が歩いていても、驚くことでもないのか。
でも、息子がまだ戻ってこないのが心配でならない。
そしたら、通りを挟んだところにある雑貨屋でもめ事が発生した。そこは東欧出身の人が経営している。
ぼくもたまに利用するけど、いつも店主が酔っぱらっている。今日も、足をふらふらさせた店主が、スカーフを頭にかぶった奥さんと子供を怒鳴り散らしていた。遠いからわからないけど、何かで子供を叩いたように見えた。
通行人が集まって来て、子供を守った。意外とフランス人は人情がある。
子供たちは近所の人が保護し、男たちが暴れている店主を説得しはじめた。
でも、警察沙汰になる前に、この辺りの顔役が出てきて、彼を諫めて諍いは終わりとなった。
その店主はタクシーが本職で、奥さんが雑貨屋を任されている。
タクシーが今、売り上げをあげられないので、アルコールに走り、奥さんにあたったのだろう。子供がドア陰で泣いている。
コロナのせいだ。ここにも一本の木が懸命に立っていた。

滞仏日記「外出制限18時を過ぎても帰って来ない息子を心配する夜」

地球カレッジ



19時になると、通りが静まり返った。それにしても息子が戻ってこない。
外出禁止時間の18時からすでに1時間が過ぎた。携帯で「大丈夫か」とメッセージを送ったが返事はない。
ちょっと心細くなってきた。街路樹が塞いで、通りの先が見えない。
すると、街路樹の暗がりから、ふっと息子が出現した。おお、間違えるわけはない。我が子である。
どんなに離れていてもわかる。通りの反対側まで来たので、
「おーーーい」
と声をかけた。
すると、ぼくに気がついた息子が顔をあげ、雑貨屋の前で小さく手を振った。



「なんで、こんなに遅いの? 19時15分だよ」
「授業が18時45分まであるんだから、しょうがないでしょ」
「警察にコントロールされない?」
「学校からの連絡、読んでないね?」
「読めない…」
笑う息子。
「授業があるなら、18時を過ぎても大丈夫なんだよ。学生手帳を見せればいい」
ぼくはため息をもらした。
「そんなものかね」
「心配しないでも大丈夫。ぼくはもう子供じゃないんだよ。手を洗ってくる」
そう言い残すと息子は浴室へと向かった。息子が無事に帰ってきたので、ぼくは一気に緊張が緩んでしまった。
毎日、やきもきして生きているけど、でも、なんとか無事に今日を終えることが出来そうだ。
「飯にするか? 今日は肉吸いだ」
うん、と息子が言った。
肉吸い、分かってんのか~? 

滞仏日記「外出制限18時を過ぎても帰って来ない息子を心配する夜」



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