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リサイクル日記「正しい愚痴り方」 Posted on 2022/07/16 辻 仁成 作家 パリ

 
人間というのはまず自分に対して疲れてしまう。
他人のせいにするのは、自分が見えていないからに過ぎない。
他人とは自分を映す鏡なのだ。

君が誰かに愚痴をこぼす。
しかし、愚痴というのは言葉の暴力以外何ものでもない。
愚痴をぶつけられた方はたまったものじゃない。
愚痴というのは邪気の塊だからね、人間が悪い気を吐き出していると思ってもらいたい。
その上、愚痴というのは他人にこぼすものだから、なんとも始末に悪い。
知り合いに愚痴をこぼされるとぼくなんかは、げんなりしてしまう。
なんで自分の不愉快を人に間接的に押し付けてくるのかってね…。
人間は自分の中で解決できない問題を、愚痴って身近な人間に押し付ける、悪質な性質がある。
 

リサイクル日記「正しい愚痴り方」




しかし、愚痴は本当に悪いことと言い切れるのか? 愚痴とは何であろう? 
じゃあ、そもそも、人間は愚痴っちゃいけないのか?
愚痴は長い一生における小さな噴火のようなものかもしれないじゃないか。
愚痴を言わないでため込む人間は逆に真面目過ぎて心配になる。
吐き出せない愚痴が爆発したら、一巻の終わり。

小出しに吐き出すことで、大きな崩壊を未然に防いでいるのかもしれないじゃないか。
愚痴はガス抜きということが出来るかもしれない。
愚痴は直な自分を表す行為だ。

愚痴を言っても確かに始まらない。
でも、愚痴ることで、人間は自分を許しているし、バランスをとっている。
崩壊しないように、自分を維持するための愚痴もある。
大事なことはそれを聞いてくれる人間がいるかどうか、であろう。
愚痴を聞いてくれる友達の存在こそが、実はなによりも、大事なのである。

リサイクル日記「正しい愚痴り方」




我々は高僧じゃない。
このようなストレスだらけの世の中で、多少は愚痴らないと壊れてしまう。
いつも愚痴を聞いてくれる友達がいるなら、君もその人の愚痴を聞いてあげればいいだけのことだ。
吐き出したストレスをお互い補いあえれば、その愚痴も邪気にはならず成仏するだろう。
誰にでも彼にでも、おかまいなしに、愚痴を言うのは慎む方がいい。
問題はそこだ。
たまにこぼす愚痴はその人の人間らしさを物語ることもできるし、時に相手に信頼感を植え付けることもできるかもれない。
愚痴は使い方次第で人を引き付ける魅力にもなる。
もちろん、適度な愚痴の場合ではあるけれど…。

リサイクル日記「正しい愚痴り方」




とても尊敬する人間が自分に愚痴をぶつけてきたら、逆に、ちょっと嬉しかったりしない?
この人は自分を頼って愚痴をこぼしているのだな、と思えば、ちょっと聞いてあげようという気にもなる。
愚痴も時には人間を繋ぐ道具となるのでから…。

そう、愚痴が架け橋になることもあるんだ。
いい聞き手は、「しかしね、人間みんな一緒だよ」などと微笑みながら呟いてくれる。いいですね。
そうすると怒りや不満も和らぐものだ。
これはガス抜き。
人生は長い、だからこそ、時々人間にはガス抜きが必要なのである。
しかし、毎日愚痴っちゃだめだ。
しょっちゅう愚痴ってる人は自分に何か問題があると思った方がいい。
愚痴というのは我慢をした人間がその上で申し上げたい、ある意味、ささやかな意見なのである。
そう思えば愚痴も必要な行為だということになる。
何でもかんでもダメじゃない。
正しい愚痴り方をマスターすれば、生きることはもう少し楽になる。

リサイクル日記「正しい愚痴り方」

愚痴というのを辞書で調べてみると面白い。
「無知によって惑わされ、あらゆることに関して真理を見ようとしない心の状態」
なるほどね、ある意味、あたってるかな。
友達の少ないぼく、愚痴りたい時は鏡に向かって愚痴ってる。笑。
するとね、自分の悲痛な顔が滑稽で、思わず笑ってしまうんだよ。
「なに、深刻ぶってんだよ、おめ~」ってな具合に。
ぼく、たまに息子にも愚痴るのだ。
するとね、息子の顔があきれ果てて歪むのである。
「パパ、疲れてるね」などと言われ、思わず苦笑しちてしまう。やれやれ。
愚痴はガス抜きだと割り切ることで、人生はわずかに緩まる気もする。
さあ、正しく愚痴って緩く生きていこうじゃないか。
自分に厳し過ぎないように、ガス抜きをしていこうじゃないか。
そんな、杓子定規には生きられない。
たまには寄り道をするように、人間は時々、愚痴ることも必要なのである。
「やってらんね~よな~、くそったれめ」
 

リサイクル日記「正しい愚痴り方」

ぼくはね、愚痴りたい時は料理をしてストレス発散しているよ。
えへへ。

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