JINSEI STORIES
滞仏日記「不動産屋のレイラから連絡があり、ぼくは物件を見に出かけた」 Posted on 2021/01/20 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、息子を学校に送り出した直後、携帯が鳴った。
「あろー(もしもし)」
「ひとなり~?」
知り合いの不動産屋のレイラからであった。一軒、条件にあう物件がイブリン県に出たのだけど、見に来れるか、という電話であった。
「今日?」
「そうよ、今日! だって、車で2時間もかからないわよ。別日でもいいけど。実はその近くで昼に内見があるから、私も顔出せるの。とにかく、たくさん物件を見たほうがいいわ」
「でも、夜間外出禁止下だからなぁ」
「なに言ってるのよ。15時にはパリに戻れるわよ。今出れば、午前中に着くし、30分とか、長くても一時間で終わるでしょう。気に入らなければ15分で済む。ひとなり、とにかく、何度も何度も足を運んで、数をこなさないと、消しゴム買うのとはわけが違うのよ。わかる? 本気で家を探しているのなら、たくさん内見するしかないのよ」
レイラはママ友の一味で、息子の小学校時代の同級生、マチルドのお母さん。見た目も声も態度もちょっとメンズっぽい、ハキハキとしたパリジェンヌである。
「わかった。行くよ」
ということで、大急ぎで出かける準備をし、そういえば、前にも同じようなことをやったが、(その時はノルマンディだった)、車に飛び乗った。
WAZEというネットのナビ・アプリに目的地の住所をいれた。
これ、すごく便利で、利用者が、事故車の位置とか警察のコントロール監視カメラ、工事情報を投稿し、それをみんなで共有しあうサービスなのだ。
つねに情報は更新され、最新情報が入手できる。
ぼくは無事故無罰金の安全運転だけど、動物の死骸がどこどこにあると教えてくれるので、早めに車線変更ができ、慌てず、より安全運転に徹することが出来るのだ。
警察情報もある意味、スピード違反への抑止力になっているし、みんなこのサービスを携帯に入れているから、同じタイミングでブレーキを踏んで、高速が同タイミングで赤く染まるのも、人間心理を覗く意味でも面白い経験となる。
イブリン県は東京と比較すると、富士山麓周辺の山梨県のような位置にある。
パリジャンのセカンドハウスが多い田舎で、土地が広大だから、場所によっては、家を買えば広大な土地がついてくるようなところもある。
ぼくの友人は平屋を買ったら、一ヘクタールの土地がついてきた。
何にもない、森とか荒野とか牧場などがどこまでも続く長閑な田舎だ。
パリに近いというのは願ってもない距離感かもしれない。
ハンドルを握る手に力がこもった。なんだか、ワクワクする。
一軒家ということだったけど、ぼくが提示した額は、日本でだったら、郊外の2LDKのマンションが買えるかどうか、という金額…。
息子を育てるのにまだまだお金もいるしなぁ、…。
レイラは、一軒家、といった。フランスの田舎の村はとっても可愛いので、昔の画家が描くようなおもちゃのような村のどこかにある一軒家だったら、という期待が広がった。
到着予定時間よりも、少し早く着いてしまったが、想像していたような可愛い歴史的な村ではなく、丘の途中に広がる、結構、生活感のある住宅地であった。
丘の上に上り、一度、周辺を見回してみた。
フランスの田舎の村はどこにも必ずひとつ中心に教会があるが、そこを中心に民家が連なっているのはここも一緒であった。
綺麗なエンジェルス・ラダー(天使のはしご)が空にかかっていた。なんかいいこと、ありそうだな、と思った。
時間になったので、ナビに案内されて、レイラと待ち合わせた教会の駐車場に行くと、すでに彼女は到着していて、ぼくを待ち受けていた。
「いいところだね」
「でしょ? すぐそこよ、歩きましょう」
一軒の家の窓の向こうに老婆が立っていて、ぼくと目が合った。
ぼくは笑顔を向けたが、なんと、老婆は視線をそらし、カーテンをしめてしまったのである。ええええ? 日本人嫌いですか?
いや、日本人とは思わないかな? 広い意味でアジア人だ、うううむ。
ぼくは周囲を見回したが、人の気配がない。少し先で、老人が庭いじりをしていた。80代後半かな。うちの母さん世代だ。
「いま、おばあさんに笑顔向けたんだけど、カーテン閉められた」
「そういうこともあるわよ。ここはリタイアした人たちの村だからね」
「リタイア? じゃあ、みんなご年配の人ばかり?」
「そうね。若い人はあまりいないかな」
庭いじりをしていたご老人が、腰を伸ばし、こちらを振り返った。
ぼくは小さくお辞儀をした。それが礼儀だからだ。
でも、老人は、再び土いじりに戻っていった。ううう、手ごわい。パリとは違う…。
「ひとなり、反応がないからって、彼らを差別主義者と決めつけちゃだめよ。彼らはもう彼らの時間で生きている。誰にも気を使いたくない人たちだから、ここにいる。ちょっと嫌かもしれないけど、パリとは違う。一人で生きていく覚悟があれば、天国。そうじゃなければ、ちょっと悲しい場所になるかもね。さ、着いた、ここよ」
レイラが見つめる家を見た。可愛らしい家であった。絵本に出てくるような家だ。
でも、隣の家も、その隣の家も雨戸が閉まっている。
誰かが住んでいるようには思えない。
家の中は、そこでつい最近まで誰かが住んでいたようなぬくもり、人間性、気配が宿っていた。いくつか家具が残っていたのだ。
もしかしたら、ここにいたご夫妻はすでに亡くなったのかもしれないな、と思った。いろいろな理由で…。
「この家具はどうなるの?」
「次の人が入る前に、私たちが整理、処理をするわよ。もし、ひとなりがここを買うなら、好きに作り直すことが出来る。平屋だけど、駐車スペースとちょっと広めの裏庭がついている。裏庭からは、教会が見えるわよ。
「さ、中に入りましょう」
レイラを分かれても、まだ昼前であった。
ぼくはそこから30分ほど車を走らせ、北フランスの海へと向かった。
そして、光り輝く、海に目を細めた。
ぼくの家探しの旅がはじまった。これはなかなか簡単な旅ではなさそうだ。
ここだと思う場所と出会うまで何度も何度も出向かないとならない。
でも、そこに広がるフランスはぼくが今まで知っていたフランスではなかった。
これも人生の旅であった。