JINSEI STORIES

滞仏日記「ぼくはケンタッキーで思い出した。今年は後厄で天中殺なのだった、と」 Posted on 2020/12/19 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、バーガーキングのドライブスルーがあまりに楽しかったし、美味しかったので、味をしめたぼくは少し早い昼ごはんを食べるために、今度はケンタッキーフライドチキンに出向き、列に並んだ。
何を頼めばいいか、わからなかったので、ネットで調べたら、チキンフィレサンドセットが目に留まった。
うわあああああ、これだぁ。
食べる気満々で、ハンドルを握りしめていたら、不意に携帯が鳴りだした。いやな予感。
鞄から携帯を取り出し覗き込むと、ああああ、前のアパルトマンの管理会社からの電話であった。嫌な予感がこの時点で、的中か…。
なぜなら、ここからかかってきた電話で今まで一度もいい話しがあったためしはない。過去、5回の水漏れはすべてこの番号とのやり取りである。まさか、…。
「もしもし」
「ムッシュ、ツジー?」
「ウイー、セモア(私です)」
「水漏れがありました。お風呂場からです」



「ちょっと、そんなはずはありませんよ」
すでに半狂乱のぼく。なんなの? なんなのよー、なんでこんな時に?
今までの水漏れはすべて上の階からのものだった。今度はうちのどこかで水道管が壊れたということだろうか? 
「しかし、水漏れは事実です」
「でも、ぼくらはそこに住んでないの、あなたたち知ってるでしょ? 去年からこれまでに5回の水漏れ、そして、天井の崩落。漏電の可能性が高まり、ぼくらは知り合いのアパルトマンに逃げてるんだ。日記にも書いたよ! 読者が心配してくれたんだ!」
「日記???」
「大家も謝りに来たし、みんなも知ってる」
「ともかく、水漏れで、下のムッシュ・ティファンが朝、トイレに起きたら、頭に水滴が垂れてきて、ぽたぽたという感じなんですけど、水道管に問題があるのだと言ってます」
知るか、そんなの! 頭の中で膨らんでいたケンタッキーのフィレサンドが萎んでいく。さよなら、ケンタさん。



「住んでないのに、つまり、何にも使ってないのに水漏れが起きるわけがないし、もし、うちからだとすれば問題の根本は壁の中からですから、壁に穴をあけて水道管の検査をしたらいいんじゃないですか? なんでぼくらが今、別の場所に住んでいるのか、あなただって知っているじゃないか? この1年で5か所の水漏れって、これは訴えられるようなレベルの話しでしょ? いくらフランスでも」
「もちろん、よくわかってますよ。でも、時々、仕事場として出入りをしているとティファンさんから聞きました。仕事で使ってるなら、トイレも使うでしょ? その時に蛇口を閉め忘れたってことないですか? 言い切れます? ともかく、管理会社としては、一度、目で確かめないとなりません。これから、来れます?」
「行けない。今、サン・マロにいるんですよ」
「そりゃあ、大変だ。大家も今、海外なので、合鍵はありません。そうなると、ドアを壊して入らないとならない」
「それはやめて。お願い、やめてね」
とぼくは思わず、ハンドルから手を放し、懇願するポーズをとった。
ドアを壊されたら、中の物が晒されて、泥棒に入られる可能性が高くなる。ここはパリだ!
ぼくは考えた。おとなしくパリに戻るしかないのじゃないか、と。
下の階の人は困っているのだし、駄々をこねてもしょうがない。
「ムッシュ、私たちは管理会社だから、どうすることもできないんですよ。水を止めるのがまずは先決です。ティファンさんの家が水浸しになる」
やれやれ。後厄で天中殺はまだ続いているみたいだ。
後厄は2月3日にあける。それまではおとなしくしているしかない。
さよなら、ケンタ。



「これから戻ります。4時間はかかるから、支度もあるので、今から5時間後、4時過ぎに建物の前で待ち合わせましょう」
ということでぼくはパリに戻ることになった。ケンタッキーフィレサンドはお預けに。
※食べてから帰ればいいじゃん、という意見もあるでしょう。でも、人間というのは余裕がない時に、おいしいとは思えないものなのです。とくにぼくみたいな神経質な男には!!!



去年、最初の水漏れが発覚し、今までに5か所から水漏れが起きている。これまで日記でもことあるごとにこの件については書いてきた。湿度が引かず、いまだどの壁も放置され、工事は手付かずなのである。玄関の天井には大きな穴が…。
ぼくに一切の非がないことは読者の皆さんの知るところであろう。
漏電が起こり、下手すると感電の可能性があると電気屋に指摘されて、知り合いのアパルトマンに一時避難をしているのだ。
でも、ZOOM会議とか、地球カレッジの配信とか、執筆の仕事などは古いアパルトマンを使っている。仕事道具を全部移動できないからだ。
たしかに仕事場として今は使っているのは事実だし、トイレを使うことはあるし、危なくない水場やお客さん用のトイレなどは使用している。
ともかく、理由はわからないけれど、まだ、どこかで漏れ続けているのかもしれない。
19世紀の古い建物なので、いくら直しても次々に問題が出てくる。
ここはもう、暮らせないだろう。この問題が解決したら、新しいアパルトマンを探さないと…。



ぼくは心を無にして、ひたすらアクセルを踏み続けた。
パリに向かう高速はガラガラだったので、だいたい予想通りの時間にパリに到着をした。
管理会社のジェロームさんとアンヌさんが建物の前でぼくを待っていた。
「ムッシュ、ごめんなさい。でも、これは仕事だから、お願いします。どうやら、漏れているのはお風呂場のようです」
ぼくは小さく頷き、階段を上った。フランスは好きだけど、何もかもがこんな感じなのである。感情的になって怒った方が負ける。
下の階のムッシュも顔を出した。
ぼくらは四人で水漏れが指摘された風呂場を覗きに行った。もしかしたら、ぼくがちゃんと水道の蛇口をしめてなかった可能性もあるので、ここは謙虚に行動した。
全員、マスクをして、一定の距離を保ちながら、廊下を進んだ。
恐る恐るドアを開けると、オーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーマイガッーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
なんと風呂場は水浸しであった。
「どういうこと? どういうことだぁ?」
「あ、上の階だ! 見てください」
ぼくらは一斉に上を見上げた。4人は、天井の中央部からポタポタと滴る雫を目撃したのである。
「上の階? 今、ロックダウンだから、あの子、またストラスブールに帰ってますよ」
「どういうことですか?」
ぼくは説明をした。
この風呂場の上に住んでいるのはパリ大学に通う女学生で、しかし、この子はロックダウン中は実家に戻ってしまう。
水漏れとかあるといけないから、とうちに鍵を長いこと預けていた。…のだけど、つい一週間前に、部屋の様子を見に来た時に、ぼくは返してしまったのだ。いつまでも預かっているわけにもいかないからだ。
そのとき、その子が言っていた。
「しばらくストラスブールに帰ります」
そして、彼女の部屋の合い鍵は大家が持っている。天中殺だぁ!
つづく。
いや、この話題、ここまで。もう、知らない!!!

滞仏日記「ぼくはケンタッキーで思い出した。今年は後厄で天中殺なのだった、と」

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