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滞仏日記「コロナ的世界は終わらない、と街の哲学者アドリアンかく語りき」 Posted on 2020/12/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ぼくが暮らす街には、浮世離れした人が大勢いる。
その中でも哲学者のアドリアンは別格だ。いつも葉巻をくわえ、よれよれの革ジャンを着て、プロレスラーみたいな体躯、ギャングみたいな風貌、スキンヘッドで、不敵な笑いを浮かべながら、うろついている。
なのに、南アフリカの大学で教鞭をとっている、哲学の博士だ。
この日記にもしょっちゅう登場し、持論を展開してきた。
特に最初のロックダウンの時から、彼はマスクを拒否し続けている。
この男がマスクを付けた姿を見たことがなかった。
最後に会った時も「外出許可証くらい持ち歩け」と忠告したが、片手を振り上げて「罰金くらい払ってやる」とギャングみたいな口調で言った。
彼の本業を知らなければ誰もがマフィアだと思うだろう。
ところが、今日、アドリアンはマスクをしていたのだ。実に、驚くべきことに、あの男が法律を遵守していた。
「よー、エクリヴァン(作家)」
「やあ、フィロゾフ(哲学者よ)、なんだ、それ? どうしたんだ? マスクしないんじゃなかったっけ?」
「マスクじゃない。よく見ろ。最新型のフェイスシールドだ」
プラスティック製のマスク型のフェイスシールドだった。

滞仏日記「コロナ的世界は終わらない、と街の哲学者アドリアンかく語りき」



でも、口の周辺が飛沫で濡れていて、なんか汚い。潔癖症のぼくは思わず、引いてしまった。
「飛沫、飛びまくってるな?」
「ちょっと、そこは改良の余地がある。でも、マスクをしていても、飛沫がこのくらいは飛んでるってことだ。マスクは息苦しいし、抑え込まれている感じがするので嫌だった」
「なるほど。でも、君はマスクを付けないのが主義だったんじゃないのか?」
アドリアンが背後を振り返り、街角に並ぶ警官たちを、顎で指し示した。
「毎回、罰金を払うわけにもいかない。もうすでに2回やられてる。次、やられたら3750ユーロ(45万円くらい)の罰金になるから、背に腹は代えられなくて、法律を守ってるだけだ、馬鹿野郎」
ニカっと不敵な笑みを笑みを浮かべて見せた。なるほど。

滞仏日記「コロナ的世界は終わらない、と街の哲学者アドリアンかく語りき」



ぼくは回り込んで、耳のひっかけの部分を覗き込んだ。
「耳掛けはどうなってるの?」
「眼鏡のようになってる」
あ、本当だ。耳にかける部分が眼鏡のようにぐるっと弧を描いている。マスクと眼鏡が合体したような面白い構造であった。
「ちょっと写真、撮らせてね」
「あー、ウイ」
哲学者は苦笑しながら、何でお前はいつも写真ばっか撮るんだ、という顔をしてみせた。

滞仏日記「コロナ的世界は終わらない、と街の哲学者アドリアンかく語りき」



「効果あるのかな?」
「さあ、どうかな?」
「今、そこのル・ボンマルシェに行ったんだが、…」
アドリアンが背後に聳えるフランスの有名デパートを指さした。
「入店を断られた」
「なんで?」
「マスクとは認められないって言いやがる。あんにゃろー」
ぼくは噴き出した。たしかに、現在、フェイスシールドはマスクとは認めて貰えない。つまりこの眼鏡型のマスクはフェイスシールドに分類されたということだ。
「残念だったな?」
「まぁ、何事も経験だよ、エクリヴァン」



ぼくらは数分、コロナ禍における世界の今後について、立ち話をした。
「コロナは落ち着くと思うかい?」とぼく。
「ま、コロナ後の世界を語るには早すぎる。いいか、ツジ。コロナ的世界は終わらないし、続くんだ。ずっとだ」
「なるほど」
「コロナ的世界と言ったのは他でもない。コロナが流行ってしまった段階がすでに結論でもある。これを早く回復させて元通りの世界に戻ろう、というのはもはや幻想でしかない。死んだ人間が生き返らないように、もう、元には戻れない。俺がマスクを付けたのも、そういう理由からだ。もう、マスクは、帽子や手袋、ステッキやマフラーと同じように、必需品になった、ということだ」
「でも、ワクチンが効果を出すかもしれない」
アドリアンは笑った。
「ワクチンが機能したとしても、一度、出来てしまった基準をもとに戻すのは並大抵では出来ない。若者の多くはワクチンを打つことでマスクを外すだろうが、君は少なくとも外さないだろう?」
「外さないと思うな。ぼくはワクチンをそこまで信用してないし」
「それはそれでいい。ワクチンはワクチンに過ぎないから、ワクチンを打ってもインフルエンザに罹ることを、人類は知っているからね。コロナのワクチンだけが完璧なんてことはそもそもあり得ない。それも幻想なんだ」



「コロナの終わりはない、という考え方が正しい。コロナの時代は始まったばかりで、これからも、少なくとも、俺たちが生きている間は、コロナ的世界が続く。コロナ的世界というのはフランスで言えば、この国がロックダウンをした日からはじまった。それ以前の世界はそこで終わったということを意味している。3月17日から後の世界が、姿形を少しずつ変えて、新しい構造を形成していくようになる。思考や哲学、もちろん価値観や方法、手段なんかを…。全てが前時代のやり方とは異なるものへと移行していく。それは少しずつだけど、不可逆的なもので、もう人類は後戻りは出来ない。コロナが収束や終息をするだろうという幻想なんて持たない方がいい。コロナ的世界がこれからのスタンダードになったということだ。早く頭を切り替えられた人間が生き残る。過去の世界に戻ることばかり考えていると心を病む。頭を素早く切り替えて、生まれ変わった世界を楽しめ」

滞仏日記「コロナ的世界は終わらない、と街の哲学者アドリアンかく語りき」

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