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滞仏日記「冬の蚊と老子の教えの狭間で、ありのままに生きることを知れ」 Posted on 2020/11/30 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、昨日、弟の誕生日だということを思い出し、息子と一緒に「お誕生日おめでとう」とメールをしたら、今朝、以下のようなメッセージが入っていて、
ガビィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン、
となった。

滞仏日記「冬の蚊と老子の教えの狭間で、ありのままに生きることを知れ」

そもそも、ぼくは弟に「おめでとう」を言ったのは人生で、一度か二度しかない。なのに、なぜか11月29日だと思い込んでいたのだ。実際は11月9日だったらしい。この20日間の時差こそが、年月の恐ろしさ、である。

滞仏日記「冬の蚊と老子の教えの狭間で、ありのままに生きることを知れ」



それにしてもぼくの寝室に蚊がいるのだけど、ついに、ぼくはそいつにエマニュエルという名前をつけてしまった。
エマニュエル・マクロンのエマニュエルじゃなく、エマニュエル夫人のエマニュエルなのである。(Emanuelは男性の名前だけど、お尻にleをつけ、Emanuelleとすれば女性の名前になる。発音はほぼおんなじ。ほぼ…)
で、エマニュエルはぼくの血を吸って、かなり生きている。
一昨日だったか、寝ていると、耳元であの羽音がした。
蚊の独特の羽音って、本当に嫌なものである。
ガバッと起きて、電気を付けたが、いない。
バカな蚊は白壁にとまって、息をひそめているので、運動神経の優れている父ちゃんに叩かれ、だいたいお陀仏なのだけど、エマニュエルはかなり頭がよいらしく、家具とか衣服に紛れてカメレオンのように同化している可能性が高い。
30分くらい寝ないで空間を眺めていたが、待てど暮らせど、近づく気配がない。
そこで仕方がないので、薄手のマフラーを頭や首に巻いて、老眼鏡をかけて、手には手袋がなかったので靴下をはめて、布団にもぐって寝ることになった。
ところがである。朝、痒くて起きたら、左手に刺された痕があった。エマニュエルめ、こんしくしょー。

滞仏日記「冬の蚊と老子の教えの狭間で、ありのままに生きることを知れ」



それで昨日の夜だけど、またまた、羽音がしたので、慌てて起きたら、エマニュエルが目の前を優雅に過っていった。
子供の頃、蚊と言えば夏の虫だった。
昨日、今日のパリはめっちゃ寒くて、防寒着でも震える。なのに、エマニュエルは元気なのである。なぜだ!?
ぼくはまた刺されてしまった。しかも、同じ左手の手の甲、その二点は一センチも離れてない。なんて正確で律儀な蚊だ。
なので、今、ぼくの手にはエマニュエルの管によって刺された美しき穴が二つ開いている。
ということで、ぼくは不眠症になり、今日はZOOMで「地球カレッジ」の講座があったのだけど、エンジンがかからずじまいだった。こんちくしょー、エマニュエル。



でも、なぜだろう。ぼくはエマニュエルを殺そうとは思わなくなってしまった。
ぼくから皆さんへの忠告がある。むやみやたらと虫に名前を付けて擬人化してはいけない。たかが蚊なのだけど、エマニュエルと名付けてしまったら、夢の中に、可愛いエマニュエルちゃんが表れて、いい感じになってしまった。
これはただ事ではない。ぼくはエマニュエルとキスをした。
多分、それはエマニュエルがぼくを刺していた瞬間だったかもしれない、と目が覚めた後に考えては、凍りついた。
こうなると、ぼくはもう自分の頭が心配でならない。
すべてはあの冬の蚊にエマニュエルという名前をつけてしまったせいだ。
やれやれ。こんちくしょーめ。



世の中はコロナで大変だというのに、ぼくはなんてマイペースなのだろう。
そういえば、女性自身のU君からメッセージがあって、「辻さん、寝耳に水で、連載が終了になってしまいました」というのだ。
なんか、寝耳に水って、こういう使い方だったかな、と首を傾げてしまった。
卒業おめでとうございます、くらい明るく言ってほしかった。
週刊誌も大変な時代なのです、とU君が付け足した。
コロナでどこもかしこも大変な時代なのはよくわかる。
大変じゃない人に最近、会ったことがない。
だから、ぼくはあえて、自然体で、ありのままで生きていかなきゃ、と自分に言い聞かせることになった。



老子によると言われる「無為自然」という言葉がぼくは好きだ。その話しをしよう。
人間というものは、作為のない、ありのままの状態が一番いいのだ、というのがこの言葉の直訳になるのだけど、どうも、この言葉は知れば知るほど、もっと深い意味に辿り着く。
辞書なんかを読むと「あまり無理をしないで、自然の流れに身を任せて生きる」と解釈されている。
無為という単語には「何もしないでふらふらしている」みたいな意味もあるけど、老子が言う無為は、人の作為が加わってない、自然の法則にまかせる、ということである。
「自分らしくしていれば、きっとうまくいくよ」とぼくは訳している。
この星も本来は無為だった。人間は作為の中で生きて、無為の中へと戻って行くだけのことなのだ、と思えば、苦しむ必要もなかろう。



さて、ぼくはこの日記をアップした後、ベッドに潜り込んで寝ることになる。
エマニュエルがまだ生きているとすれば、ぼくに会いに来るかもしれない。
たぶん、ならば、もう殺そうとは思わない。
2353字も使って、あの子のことをここに記したのに、「殺した」じゃ、あんまりだ。
特に明日は予定もないし、週刊誌の連載も終わったので、ちょっと慌てないですむようになった。
新しくできた時間で、きっと自然に何かがまた生まれてくるのである。
ありのままの自分でいるのがとっても難しい時代なので、「無為自然」の実現は並大抵のことではない。
だから、ぼくは死ぬまでの間に、もっと多くのことを受け止められる人間になれればいいなぁ、と思っている。
こうしたい、と思うものが、自分らしさ、だと思うので、そうすればいいのだけど、そこで「無為自然」の意味が立ち上がり、無理しすぎない程度にある程度は流れに身を任せていこうか、ということになる。
ぼちぼち行こか、という大阪弁は、実は、無視自然なのだ。素晴らしい。

ああ、エマニュエル。お前は今夜もぼくの血を吸いたいか。

滞仏日記「冬の蚊と老子の教えの狭間で、ありのままに生きることを知れ」

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