JINSEI STORIES
滞仏日記「譲ることが出来る生き方と譲れない人との向き合い方」 Posted on 2020/11/28 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、クリスマスが近づいて来たので、クリスチャンじゃないけど、ちょっと今年はコロナでいろいろとあったし、クリスマスツリーでも家に飾ってもいいかな、と思って、息子が学校に行ってる間、花屋さんに物色しに行くことにした。
何か目的がないと、ロックダウン生活に挫けて、家から出なくなってしまうからだ。
よっこらしょ。
目の前に目的の花屋が見えた。でも、交通量が多くて、その上、信号がなかった。
とりあえず、ぼくは車が途切れるのを待っていた。
ところが一台も止まってくれない。
年末だし、忙しいのはわかるけど、ぼくだけじゃなく、隣に、高齢のおばあさんも立ったというのに、一台も止まらないのである。
けしからんな、と思っていると、一台のトヨタ車がぼくらの前で停止した。
中には紳士が乗っていた。
ぼくは隣のおばあさんを先に歩かせ、その後ろをついて渡った。
横断途中、運転手さんに、手を振ったら、笑顔が戻ってきた。
その人の車の後ろにはたくさんの車の列が…。この人のおかげで渡ることが出来た。
メルシー、とぼくは大きな声で言った。おばあさんも振り返り、笑顔を向けていた。
トヨタ車はさっそうと走り出した。
「ああやって止まってくれる人が減ったね」
とおばあさんが呟いた。ぼくに言ったわけじゃないのだろうけど、…。
「でも、渡れてよかったですね」
「あのね、ムッシュ。なんで、あの人が停止したか、わかるかい?」
おばあさんが走り去った車の方角を見ながら告げた。そっちに夕陽が沈みかけていた。
咄嗟にふられたので、即答できなかった。
ぼくは肩を竦めてみせた。
「それはね、たぶん、いい男だからよ」
「そうでしたか? 顔まで分からなかったなぁ」
「ダメね、あなた。ちゃんと見なきゃ。あの人、笑顔だったでしょ? 笑顔を作る余裕がある人間だったということよ」
「なるほど」
「本来、優しい人かもしれない。親が厳しくしつけたのかもしれない。それに急ぐ必要がないからね、心に余裕がある。いい車かどうかわからないけど、洗車してあったから、丁寧に生きてる人。きっとお金も多少は持っている。成功者かどうかまでは、わからないけど、ありゃ、苦しんではないな」
「なるほど」
「運転席にいる人間というのは少し高い場所にいるからね、通行人に対して偉そうになるドライバーばっかりよ。でも、考えてみて、同じ人間だし、ただ運転してるだけで、そこに差はない。なのに、偉そうに振舞えるなんて、心と頭が残念な人間に他ならない。ろくでもない。わかる? ろくでもない人間なのよ、みんな」
おばあさんはそう言い残すと、花屋の先へと歩き出した。
ぼくは、慌てて追いかけた。
この人こそ、タダモノじゃない、と思ったからだ。
もう少し話しを聞きたかった。
「あの、すいません。その、なんでそう思ったのか、教えて貰えます? ぼく、作家なんですよ。ろくでもない、日本作家」
おばあさんが立ち止まり、まぁ、と好奇心の塊のような顔でこっちを振り返って、微笑んだ。
「あなたがなぜ、あの人の素性をそこまで見抜いたのか、知りたいんです」
「それはね、私があなたたちよりも長生きしているから…。そういう人間ばかり見てきたからよ。人に道を譲れる人間というのは、まず、相手に思いやりがある。ある意味、豊かな人なのでしょう。お金はないかもしれないけど、魂に余裕がある」
「なるほど。じゃあ、道を譲れない人間とは?」
「その反対よ。毎日、文句ばかり。コロナだから、仕事がうまくいかないのはしょうがないけど、それはみんな一緒。でも全部誰かのせいにしちゃう、譲れない人間が増えた。お金が稼げない。何をしても満足できない。笑顔も浮かばないだろうから、ふてくされてる自分の顔を見続けてるうちに、心も暗くなっていく。誰かに意地悪したくなる。道なんかぜったい譲るもんか、と思って生きてる。残念な思考の人たち。ただ、勘違いをしないで、生まれつき悪い子なんていないのよ。貧しくても、よく世界を見て、自分の人生を考えて、どんな状況であろうと心にゆとりを持ち続けて生きていくことのできる人も大勢いる。そういう人もある意味で人生を操ることが出来た豊かな人なのよ。だからね」
「だから?」
「私は毎日、あの歩道のところで、停止しない車を見送りながら、この人たちは不幸なんだから、許してやれ、と思ってるんだ」
ぼくはドキッとした。
この人はなんてことを言うのだ、と思った。
同時に、こんなことを経験させてもらえたことはきっとどこぞの神様の導きだろう、と思って、まずは日記に書こう、と思った。
「びっくりしました」
「なにが?」
「いえ、そういう考え方もあるんだなって」
おばあさんは笑いだした。
「考え方? 違う。私は見下されて生きてきた時期が長かった。私をバカにする人間たちは私の出自を問題にした。移民だったから。でも、私は頑張って働いて、誰にも負けない人生を手に入れた。そして、幸せな結婚をした。夫はフランス人で、私を愛してくれた。彼はいつも、横断歩道で止まって、必ず、人を先に行かせる余裕のある人間だった。私は助手席で彼の行いや優しさを見続けた。だから、分かるのよ」
「なるほど」
「ええ、だから、彼は今、天国にいる。どう? 小説になりそうでしょ?」
ぼくには、この人が天使に見えて仕方なかった。
「じゃあね、日本の作家さん。いい本が書けるといいわね」
「ありがとう。あなたも、良い一日を」
「あなたもね」
ぼくはおばあさんを見送った。
なんて素晴らしい日なんだ、と思えた一日であった。