JINSEI STORIES

滞仏日記「息子問題に悩み過ぎて鬱気味父ちゃん、寝込んだの巻」 Posted on 2020/11/16 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、父ちゃん、心配熱で寝込んだ。
家事とか生活に追われると、ぼくは時々、鬱気味になる。
仕事量、家事全般に加え、今回は息子の進路問題が重なり、地球カレッジも無事に終わったので、どどどどどどどっと疲れが出たのは間違いない。
息子の進路問題は解決したかに見えたが、ぼくが音響大学を許可したというのに、本人は一晩考えて法学部のある大学に進むしかない、と言い出した。
この説明が難しいので、省くけど、父ちゃんは熱が出てダウン、ついに寝込んだ。
簡単に言うと、フランスの進学システムが難しすぎて分からない。
わからないのに、ここの大学へ行けと言っても説得力がない。
月曜日までに提出しないとならない進学願書を渡され、サインをして、と言われたけど、読んでもチンプンカンプン。
息子が仏語で説明してくれたけど、?????????????、のレベル。
息子に、すまない、父ちゃん、わからんわ、お前がやりたいようにやれ、と言い残した。

滞仏日記「息子問題に悩み過ぎて鬱気味父ちゃん、寝込んだの巻」



熱っぽいので体温計で測ると36、4度もあった。
ぼくの平熱は35,4くらいなので、微熱だ。
今、微熱と書くと、ここはフランスだし、コロナだろ、と言われそうだけど、ぼくは頭痛持ちだから、自分の体調くらいわかる。
これは知恵熱ならぬ心配熱なのである。
何もやる気がおきなくなり頭痛薬を飲んでベッドに潜りこんだ。
寝ながら、もし、進路くらいのことで息子が心を病んだり、想像したくもないが真面目過ぎるので、変なことになるのはやばい。
これ以上、ぼくがとやかく言って、彼の人生そのものをダメにさせるよりは、元気で生きていてくれる方がいいじゃないか、と思った。そうだ、その通り。
そしたら、急に、力が抜けてしまったのだ。情けなくなって…。
なので、家事はお休み。
息子は適当になんか作って食べるだろう。



午後、頭痛がちょっと落ち着いたので、散歩に出かけたら、例のリースしているドイツ車のミラー部分が破壊されていた。
当て逃げというか、ミラーは閉じていたので、故意に誰かに破壊されたのだろう。
これがぼくの車とわかる人間はいないので、コロナで不満を抱えた気の毒な人の仕業だ。
普通だったら、「この野郎」となるところだけど、その気にすらならない。
「長い人生だからさ、こういうこともあるよね」と自分をなだめ、写真を撮影しといた。

滞仏日記「息子問題に悩み過ぎて鬱気味父ちゃん、寝込んだの巻」



地球カレッジ

ともかく、こんなこと、今のぼくが考えることじゃない。
明日だ、全部、明日が引き受けてくれる。
今は、散歩をして、自分を保て、と言い聞かせた。
とりあえず、写真を友だち、前に一緒に自動車会社まで文句を言いに行ってくれたバーの経営者U氏に送っておいた。
「また、やられた。明日、電話する」とメッセージ添えて。
すると、間髪をあけず「ツジー、任せろ。何の心配もするな!」と返事が戻ってきた。
ありがたい、友だち最高。
今は心をオフにして、散歩だ。
歩け、ツジ!



頭痛は収まったけど、気力は戻らない。
なんか食べなきゃ、元気にならないな、と思い、キッチンに行った。
「キッチンは裏切らない」これは本当のことだ。
どんなに辛い時もキッチンだけは味方である。
苦しい時はガンガン炒めて、ジャンジャン食うに限る。
冷蔵庫を覗くと卵が目に留まった。
煮卵を食べたい、と思ったら、勝手に身体が動いていた。
半熟卵を作り、煮卵の汁を作り、漬けて冷蔵庫に戻した。
結局、作ったことで納得し、食べずに、もう少し寝ることになる。

滞仏日記「息子問題に悩み過ぎて鬱気味父ちゃん、寝込んだの巻」



U氏からSMSが届いた。
「ミラーは総とっかえしないとダメだな。調べたけど、全部で700ユーロくらいするな。保険を使う場合でも、自己負担で350ユーロかかってしまう。返事は明日でいい」
「ありがとう」
とメッセージを返しておいた。700ユーロって、8万6千円やん!
やれやれ、今日は最悪の日曜日だな、と思ったら、なぜか、笑えた。
人間というのはどうして、毎日、こうもいろいろなことが次々押し寄せてくるのだろう。
ぼくはよく生きているよ、お前は偉い、と自分を褒めてやった。
でも、きっとぼくだけじゃない。
この日記を読んでる読者の方々だって、大なり小なり、問題を抱えているはず。
無傷な人間なんかいないんだ。
それが生きるということだ。
負けるな、と自分に言い聞かせて、寝た。



次に目が覚めると、あたりはすっかり暗かった。
夕飯だけは作ってやらないと可哀想なので、キッチンに行き、まず、煮卵の出来具合を見た。うん、いい感じである。
ぼくは冷凍庫から牛の薄切り肉をとりだし、余った野菜を使って肉野菜炒めを作り、煮卵丼にした。
で、息子と再びご飯を食べながら向き合った。
「サインしてくれた?」
「するよ。これは法律大学に進むという願書だね?」
「そう。残念だけど、もう今から物理と数学を取り直しても、勝てないことが分かった。まずはパパの言う通り、生きることを目指す」
「でも、本当に音響の大学はもういいんだね」
「ぼくね、調べたんだ。法律の大学を出ても弁護士だけじゃなく、様々な仕事に就くことが出来る。パパの言う通り、仕事のモチベーションはその時に決まるんじゃないかって。これも、ぼくに与えられた人生だと思った。一晩、よく考えて、法科大学を目指すことにした。あとでぼくが探した大学の案内ネットがあるから、一緒に見てくれる? 」
「そうか、よかった。安心したよ。でも、お前の今のレベルだと相当頑張らないとだめだから、ちょっと音楽やるの、減らさないとな」
「うん」
「じゃあ、それでいい。美味いぞ、食え」
ぼくらは煮卵丼に箸をつけた。不味いわけがなかった。
とにかく、息子の道が決まった。父ちゃんの頭痛が治った。
ミラーなんか安いもんだぜ! あはは、こんちくしょーめ。
こうやって、毎日、人間は日々、前進していくのである。

滞仏日記「息子問題に悩み過ぎて鬱気味父ちゃん、寝込んだの巻」

自分流×帝京大学