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第六感日記「死んだら人間は終わりなのか」 Posted on 2020/11/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ここのところ、毎晩、とある人が亡くなる夢を見る。最近、交流のない人で、あまりにリアルだから、怖くて目が覚め、トイレに行くのだけど、背筋がずっとざわざわしていて、死の予感に付きまとわれ、困っている。その人だけじゃなく、他にも、2,3人いる。連絡がとれるような人たちじゃない。でも、「生きてますか?」と連絡しようと思えば出来るのだけど、いきなり聞くのもちょっと違うのかな、と思って、躊躇っている。でも、今週は同じ人物が3回もぼくの夢の中で亡くなった。他にも一人、小説家の先輩が、もう一人はよくわからないのだけど、あの人かな、という人物で「さようなら」を言いに来た。これらの人たちとはずっと交流がないので、不意に出現した意味がわからない。まぁ、いつかはそういう日が来る、と自分に言い聞かせている。こうやって文章にすることで、この気配を交わすことが出来るかもしれない、と思って、正夢にならないように、書いておく。



でも、人間は生きるのが仕事だけど、運命がそれを遮断するのも人生なので、いつかはお別れの時が来るのだという覚悟は常に持っていないとならない。誰かが死んで悲しいのは確かだけど、それは早かれ遅かれ、自分にもやってくる、と言い聞かせて、手を合わせ、またね、と送り出すことにしている。

第六感日記「死んだら人間は終わりなのか」



ぼくのおばあちゃんが昔、おじいちゃんが死んだ後、「人間、死んだら終わりたい」と言っていた。「あんたはいつも大きなことばっかり言ってた。こういう時、どうするかね? 私はどうしたらよかと? これから先、どうやってこの難題を、子供たちのことを見て行けばいいっちゃろうね。あなたは今、どこにおるとや?」それから仏壇から視線を逸らし「でも、あんたはもうおらん。どこか行きなさった。人間、死んだら終わりたい」と言ったので、ぼくは驚いてしまった。小さかったし、終わりの意味がよく分からなかったけど、あれから、半世紀、ぼくはずっとその言葉の意味を追いかけている。だんだん、分かってきたことは、死んだら天国なんかなくて、全てが意味をなくす、ということだった。苦しいのも嬉しいのも美味しいのも儚いのも生きているからで、死んだら終わりったい、がその後のぼくの哲学になった。



しかし、死んだら終わりたい、という言葉の裏側には、だからこそ、今を精一杯生きなさい、というメッセージがあることにも気がついていく。おばあちゃんが亡くなる前に、ぼくはある大事な伝言を預かることになる。
「ひとなり、お前にだけは言っておく。私はもうすぐ、この世から去る。でも、それを悲しむな。お前にだけは言っておく。わしはお前を遠くから見守る。おじいちゃんは死んだら終わりだったが、わしはお前を見守る。お前がこれから苦しいと思うことがあったらわしのことを思い出せ。わしが遠くからお前に力をおくる。死んだら人間の肉体は終わるが、わしの霊魂はお前のそばにいる。いいか、お前がわしを思い出す時、そこにわしがいるということを思い出せ。お前がわしを思い出す時、わしはまだこの世でお前を守ることが出来る。必ず出来る」

おばあちゃんはその後死んだ。でも、あれからずいぶんと月日が流れているけど、時々、ぼくはおばあちゃんのことを思い出す。そして、あの日の言葉を思い出す。『お前がわしを思い出す時、いいか、わしはそこにいる』

第六感日記「死んだら人間は終わりなのか」



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